福田正彦 エッセイ集-1

金魚のヒーブツゥ


    金魚のヒーブツゥ  A-22

 

    お尻の煙り  A-23  
   

ナニーの値段

 A-24  
   

チャンスの後頭部

 A-25  
   

生きていたH.M.S.バウンティ

 A-26  
   

ちょっとした冒険

 A-27  
   

青森の三檣シップ

 A-28  
   

土曜日のお酢

 A-29  
   

子どもの領域

 A-30  
   

リギンを吹き抜ける風

 A-31  

 



金魚のヒーブツゥ

わが家の水槽に金魚が2匹いる。1匹はデブという名で、もう1匹はチビという。3年前に卵からかえったばかりの、ほんの数ミリ程度だった20匹の生 き残りである。なにしろよく食べる。小さい頃から体格の優劣がかなりはっきりするもので、ダメな金魚が次々と脱落するなかで、やはり残るのは大きいものばかりといえる。デブは18センチある水槽の桟幅いっぱいで、チビでもその3分の2はあるから、水槽の大きさから見てもこれ以上は大きくなるまい。


飼ってみると金魚はなかなか可愛い。ぼくが座るとそれこそ何を置いても寄ってきて餌をねだる。かみさんはあまり餌をやらないからそれほどではないが、ぼくには大きな身体をよじって、身を震わせて餌をくれという。金魚だからしゃべるわけではないけれども、水面に半分口を出して、ばくばくと音を立てる。挙げ句の果てにはしゃんと水をはねかえす。餌をもらえるとなれば、背中をさすられても平気という食いしん坊である。


ところで金魚がどうやって餌を食べるかご存じだろうか。もちろん口で食べるのだが、浮いている餌にただやみくもに突進しても水槽の壁に鼻を(鼻があるとしてだが)ぶつけるば かりで、口にはいる餌は1粒か2粒にすぎない。がばがばと餌を食べるには水中で止まっている必要があるのである。ご存知のように、帆船が海面で錨を使わず に一時停止するには、いくつかの帆に風を受けて推力を得ると同時に、別の帆を裏帆にして(つまり帆の前側から風を受けて)逆の推力を得て平衡させる。これ がヒーブツウ、日本語では踟躊(ちぢゅう)という難しい言葉があるが、誰も使わない。

 

金魚はヒレで動く。背中には背ビレ、腹の方には前から胸ビレ、腹ビレ、尻ビレ、それと一番後ろに尾ビレがある。このうち胸ビレと腹ビレだけが対になってい る。金魚をよく見ていると、餌を食べるときはゆっくりと尾ビレを動かすと同時に、胸ビレを懸命に動かしている。胸ビレば後ろ向きに生えているから、これを 動かすと水を前に押しやることになって、後進力が働く。もちろん尾ビレは推進力だから、金魚は水中でヒーブツウしているのである。この方法だと金魚はどん な方向を向いても一時停止できる。


帆船は二次元運動だか、金魚は潜水艦と同じで、三次元に動く必要がある。水面の餌がなくなると底 の砂利に沈んだ餌が目標になって、逆さになって砂利を口に含んではぺッと吐き出す。これなんぞはまさにヒーブツウできなかったら、金魚そのものがざっくり 砂に突っ込んでしまう。水中に漂う餌は胸ビレを横に広げ、ゆっくり上下に動かして水平を保ちながら、尾ビレで前進して食べる。なんだか余り役に立ちそうも ない小さな胸ビレだが、ひどく重要な役をしていることを発見して嬉しくなった。

 

なーんだ、そんなのジョーシキだよと言わないでほしい。「オーィ金魚は ヒーブツウするぜ」とかみさんに怒鳴ったら、もう3回目よと言われて落ち込んでいるのだから。

 

  

 

 

 

(ザ・ロープニュースNo.6)

 


お尻の煙り

喘息というのは苦しい病気だ。発作が起きると首を締められながら山を上っているような気がする。その3度目の入院のとき、ばったり会員の渡辺晋さんに会った。「どうしたのよ‥」とお互いに言い合ったが、聞けば奥さんが隣の部屋に入院しているんだと か。奥さんとは戦友だね、と笑ったが、渡辺さんはいたく同情してくれて、翌日退屈だろうからこれ見てたら、と立派な本を貸してくれた。


なんとそれが、プードリオの大砲鋳造書の英語版なのだ。入院中のことで、もちろん辞書も持っていないが、渡辺さんが読んでみたら、と言わないのはそればかりではないんだろうけど。フランス語ならハナからあきらめて大それたことは考えないが、ここは一丁できる限り読んでやろうと思い立った。


その気になってみると、技術書だけに思ったほど難しくない。何せ時間はたっぷりあるから、読書百遍、しかも親切な絵がたくさんあって、意自ずから50%位 は通じるようになった。昔の大砲はどうやって鋳造するのか、ご存じだろうか。まずスピンドルと称する木製の円錐の棒にライ麦の(ライ麦というのがいかにも 英国らしい)藁で作った縄を水を掛けながらぎりぎりと巻く。これに灰や粘土を薄く付けては乾かし、ちょうどバウムクーヘンのようにした上に脳を付ける。これを整形して原型を完成させる。

 

持ち手のドルフィンなどは「ロストワックス」だと書いてあった。この原型に配合こそ違うが やはり灰や粘土を重ねて張りながら乾かし、最後に板で囲っていくつもの鉄の輪で固定する。完全に乾いたところで、スピンドルの細い方をハンマーでたたいて 抜き取り、ゾロソロと縄を解いてから鋳型を斜めにして下から火を焚く。まあ、凄まじいやり方だが、ここで完全に乾かさないと溶かした鉄なり真鈴をいれたと きに水蒸気爆発を起こして大変なことになるそうで、千六百何年かに16人が死んだそうな。

 

完成した鋳型を何本か立てて問を砂で埋め、上から溶かした鉄や真鈴を注ぎ込む。完全に冷えないうちに鋳型を壊さないとタメなんだそうで、熱気とほこりで今 だったら裁判ものだろう。びっくりするのば砲腔の切削だ。最初の頃はあの重い大砲を宙吊りにして (枠はあるが)下からバイトを回しながら削つていったのだ。さすがにバイトの支えだの切削の帯皮の悪さだののために、改良が加えられて、大砲を横に寝か し、これを1馬力(馬1動で回しながらバイトを差し込んで、何回かに分けながら切削するようになった。

 

もちろん兵器だから厳重な検査がある。大砲に水を入れて語れないかを調べる。それを完全に乾かしてから、ユニークな検査が行われる。底に少し火薬を入れて火を付け、上から布製のピストンをグッと突き入れる。お尻から煙が出たら哀れそれまでの苦労は水の泡となるのである。


入院は好んでするものではないけれども、このような楽しみがあれば、余録もある。息の合った可愛い看護婦さんにノミにするからと太い注射針をねだることもできる。「お尻を刺すわけじゃないからさ」というと、「さあ、私のお尻に刺さるかしらね」とちょいと煙のでないお尻を突き出してくれたりして、病院生活も そう悪くはない。

 

 

(ザ・ロープニュースNo.12)

 

 


ナニーの値段

「いやいやそうじゃないんです。レッテルに帆船の絵がついているでしょう。つまり船があって、それからウイスキーができたんですよ。ね」 4年もかけて作ったカティサークの前で、ぼくはいつも「まぁ、ウイスキーの名前をとったのね」という人になやまされる。げに宣伝とは恐ろしい。でもあまり凹ませてもいけないから、美しき魔女ナニーの物語を披露することで関心をそらす。


靴修理屋の友達としたたか飲んで夜を過ごしたスコットランドの農夫タムは、大雨と雷光の申、灰色の雌馬マギーに跨がって教会の庭を通りかかったとき、バグパイプや角笛で踊っている魔法使いと魔女の一群に出くわす。中にそのグループとは似つかわしくない若く美しい魔女ナニーがいたのだ。ナニーは「カティサーク」のほか何も身につけていなかった、スコットランドの詩人ロバート・バーンズは彼の作品”タムシャンクー“の中で詠っている。そう、カティサークとは英語の俗語で「短いシャツ、あるいはシミーズ」のことをいうのだ。踊りに興奮したナニーはタムを見付けて誘惑しようとするが、酔いも覚め果てたタムはマギーを駆って大急ぎで川を越えて逃げようとする。魔女は流れる水を越えることができないと知っていたからだ。それでも若く俊敏なナニーは素早く追いかけ、橋のたもとで追いついて手を伸ばす。手に残ったのは、タムではなく、マギーの尻尾だけだった。

 

残念 ムネンの気持ちは分かるが、本物のナニーのフイギアヘッドの形相と来たら、とても若く美しいという雰囲気ではない。あれでは「カティサーク」が泣こうとい うものだ。まあそれはともかく、現実の船の建造はなかなか大変だったらしい。発注者「ホワイトハット」ウィリスは、シャンテイ(鉛を上げるときの撫子歌) にも歌われた「オールドストーミー」ウィリスの息子で、相当なガッチリ屋、建造費は1トン当り17ボンドしか出さなかった。若い非凡な設計者リントンと通 船技師スコットモンクリフは「ホワイトハット」の敵ではなかったのだ。963トンだから、総額にして16,371ボンドのところを16.150ボンドで契 約したのだからすさまじい。ほぼ100年後の1966年に建造された10・4トンのジプシーモスⅣ世号の総額が35,000ボンドだから、1トン当り 3,365ボンド、実に200倍の単価になっている。いい仕事はしたけれど、いくら当時でもこれは安すぎた。二人はとうとう破産、カティサークはリーブン 造船所のウイリアム・デニイ兄弟の手で完成された。スコットランドはナニーよりもっと残念だったに違いない。


ところで、ぼくの作ったナニーもマギーの尻尾を握っている。かみさんを騙して、記念になるからナと切り取った髪の毛だ。たとえ灰色のほうが似つかわしくても、幾ばくもないぱくの髪を切り取るつもりは毛頭ない。

 

 

 

(ザ・ロープニュースNo.7)

 

 


チャンスの後頭部

何十年も前、ぼくでも下を向けばバサリと重い髪の毛が落ちてきた頃、町中に格好のいい車が走っていた。ドイツフォードのオペルである。そのグレードの名称が海軍の階級と同じで、カデットから始まって最高級車がカピタンといった。ロイテナントというのがあったかどうか覚えてはいないが、カデットというのが士官候補生だとそのときに知った。


やがて北海道の魚屋の学校を卒業して、就職する前に南極の捕鯨船に乗らないかという話があった。いろいろな都合でどうしても乗れなくて残念だったが、候の友人が乗って、面白かったぞと自慢たらたらだった。何せキャッチャーポートでドクターをまねて下痢をした奴の腰にヨードチンキを塗ったという壕の者だから面白くないわけがない。彼にいわせるとそのときの階級がアプレンテイスオフィサー、皆からアップさんと呼ばれていたそうな。思い込みというのは恐ろしいもので、それ以来ぼくは士官候補生のドイツ語がカデットで、その英語がアップだと信じていたのである。


ごく最近、かのダグラス・リーマンの翻訳家としても高名を大森洋子さんの案内で、新しい日本丸を見学する機会があった。大森さんはかつてこの日本丸で体験航海をしたりして、今の夫君の柿崎機関長に獲得(どっちが獲得したかば知らないが)されたという伝説の持ち主だ。その航海の時の部屋がカデットのではなくて、エンジニアのだったかしらん、と彼女がいうので、ぼくはぎょっとなった。カデットは英語なの?考えてみれば当たり前の話で、ドイツ語と頭文字は違うがカデットも英語で、見習士官たるアプレンテイスは給料がもらえるんですよと姉崎機関長が親切に教えてくれた。かきむしるほどの髪の毛がなくなってから知るというのは何ともしまらない話で、今でもぼくは顔が赤くなる。

 

その大森さんが訳したリーマンの「キール港の白い大砲」はとても印象的な本で、面白く読んだのだが、表題の「キール港」にちょっと引っかかった。「これは『キール軍港』か、単に『キール』じゃないですかね」とぼくは生意気なことをいったのだ。


1976年、ヨーロッパの港湾視察団に加わって南フランスのフオス港を訪ねたことがある。このあたりはカマルグ地方で、マイケル・ムアコックのSF「ルー ンの杖秘録」に出てくる湿地帯の幻想的なところを思い描いていたのだが、生憎建設中のフォス港は黄塵万丈の世界だった。


ところで港湾局のパーティーで出た食前酒の「キール」がどうもちょっと違う。美味しい、といったら相手はニヤリとして、これは「かのキール」ではなくて シャンペンで割ったもっと上等なキール・ロワイヤルなのだという。ここはフランスだせ、キールより上等ならなぜ「ブレスト」といあないんだ、といいたかっ たがとっさに英語が出なくて、モゴモゴしている内にチャンスは去ってしまった。後でアテンドの通訳氏に話したら、惜しいことをしましたね、フランス人なら 大受けしたのにといわれて悔しい思いをした。


だからぼくにとって「キール」は特別の思い入れがある。それにしても、チャンスの後頭部にはなぜ毛が生えていないのだろう。

  

 

 

(ザ・ロープニュースNo.13)

 


生きていた H.M.S.バウンティ

アメリカ東海岸をちょっとお休みして、今回はオーストラリアはシドニーに飛ぼう。今年の2月末、メルボルンで開かれた国際会議の後、密かにシドニーに寄った。猛烈な北国の熱暑(間違いではない、オーストラリアは南半球にあるのだ)もあったメルボルンから見ると、その時のシドニーは比較的涼しい。もちろんお目当ては海事博物館とバワンティ。

 

海事博物鐙は模型に関する限り、あまり期待できないが、記念盤の駆逐鑑バンパイアと、思いもかけずロシアの潜水艦に入れた。その話しは割愛するが、他はともかくバワンティのクルーズには何としてでも乗りたい。この地の夏の間だけオーストラリアで過ごすという優雅な友人と連結を取って、翌日の朝 いそいそとホテルを出た。

 

キャンベル・コウプというのがパワンティの係留地だが、朝の空気を吸いながらぶらぶらと高台から下がる道を行くとベイブリッジの真下に出る。その右手が昔からある倉庫街で、角のカフェで朝食。とてつもなく大きいクロワッサン1個と大振りのカップに熱々のカプチーノを朝風に吹かれながら食べれば、5.5ドルの何と安いことが。10時少し前に139ドルのブランチクルーズの切符をカードで買う。余計なことだが、オーストラリアのホテルの両替率はものすごく悪いがら、カードの方が絶対得よという友人の忠告に従った。

 

ぼくは大航海倶楽部の会員で、横浜に来る咸臨丸にはよく乗るし、それなりにいいとは思うのだが、シドニーのパワンティにはもっと帆船としての生活のにおいというか、船としての現実感がある。1日に何回も出るせいか、セールはグーズネックにしたままだし、色もとても白いとは言いかねるが、たとえクルーが当時の服装をしていなくても、18世紀にいるような気がしたに違いない。やがて時間になると、後で一等航海士のジェイムズと知れたツパ広の黒い帽子をかぶり、白シャツ、黒の半ズボンの男が、船を後ろに乗船者に向かって巻物を拡げ、何やら大声で読み上げる.このジェイムズが自ら解縄直後、岸壁からヤーダムに吊るしたロープを握って奇声をあげながら船に乗り移るというパフォーマンスを見せた。この辺は実に上手い。

 

フォアトブスルを拡げるからハリヤードをみんなで曳いてほしい、とこれは分かる。ジェイムズはシャンテイを歌うからそれに合わせて曳けといったが、その調子の いいシャンテイはさっぱり分からない。それでもパンと帆が張られると一斉に拍手が起きた。前日の海事博物館で買ったジーンのキャップで禿頭を隠していたせ いが、いろいろと聞いたせいが、ジェイムズは自ら名乗って、おまえの名前はと聞く.FU・KU・DAというのだと教えてからが大変。メントップスルのシートを曳くかとが、違う、違う、と地だん駄を踏んで、輪がねは時訂回しにしろとが、反対舷からフクダ!と声をかけてミズントップスルのクリューラインを曳く かとか、決して曳けとはいわないが、質問形の命令を次々に連発する。

 

ブランチのケーキや紅茶をろくろく取る間もなく、上甲板を走り回ってロープを扱っているぼくを見ていたジェイムズや赤いバンダナと縞シャツのサムは、やがて 「オー、ナチュラル!」とほめて(多分)くれるようになった。学習院の英文科出身のぼくの友人達は、後でうーん、そんなほめ方もあるんですねぇ、と感心し ていたが。

 

1時間半のクルーズはあっという間に終わり、接岸の前になるとサムが左舷のガンポートを開ける。何でだと聞くと、にやっと笑ってスプリングを取るのだと親指 を挙げた。おまえなら分かるよな、というこれもほめ言葉と受け取った。音作ったパワンティの製作写真帳に、キャプテンのミッチェル・プライレムとこのジェ イムズ・パープリイのサインをもらってある。ぼくはマリリン・モンローのサインはほしくないが、これは大事にしたい。そしてジェイムズのいったように、ま た会おうぜ、を実現したい。

  

 

 

(ザ・ロープニュースNo.20)

 

 


ちょっとした冒険

年を考えれば身体を張ってというのは望むべくもなく、頭の中でということになるが、海洋小説を英文で詰む、というのはぼくにとってちょっとした冒険だった。何でガラにもなくそんなことを始めたのか、まあ聞いてほしい。


20年近くも前、資料を家に持ち帰ってぼくの専門の食品関係とはまるで無縁の法律用語を悪戦苦闘しなから靭訳せざるを得ない時期があった。まだ幼かった長男がそれを眺めて、オヤジは英語で「会話」ができるとどうやら勘違いしたらしい。やがて彼が自分の仕事で必要になって、英会話に通っていた数年前のこと、先生だったジェーンという名のおそろしく背の高いニュージーランド人の女の子を得々と家に連れてきたあげくに、後でぷ然としだ表情でいったものだ。
「オヤジの英語はひでえもんだナ」


別にコケンに関わるとはいわないにしても、男一匹にしてはやはり悔しいがらぼくも英会話に通った。しかし、間もなく日本を離れたジェーンを逃す手はないとはかり、ぼくは妓女と文通を始め、おまけにもしできたらぼくの英文を添削をして戻してくれないだろうがと頼んだのである。


ジェーンはとても親切で、何回か添削してくれた上に、あなたの英語は他はともかく前置詞の使い方がよくない、これは慣れるしがないのだから英語の本を読みなさい、といってきた。だからぼくがアレクサンダー・ケントの「わが指揮艦スパロー号(Sioop of War)」を読むようになったのにはいささか不純な動機があったといえる。

 

読み始めると英語の小説は真っ暗闇を手探りで、というほどではなかった。まあそのために翻訳の出ている本を選んだのだが、訳文の記憶にも助けられて、いっ てみれば最初はすりガラスの向こうにある世界が時にははっきりと、時にはうすぼんやりと見えるような有り様だった。これがもう一度訳文を見ると文字どおり 目から鱗が落ちることになる。英文を読むときの翻訳本の効用というものは、こういうときまことに素晴らしい。

 

少し余裕ができて、持ち歩き用の小さな辞書に手垢が付くようになると細かいことにも目が行くようになる。何となく読み過ごして、訳文に「用意はできてい る。ご苦労」なんて出てくると「え、ご苦労なんて英語でなんだっげ」、そう、当たり前なんだけれどもこれが「サンキュー」。ぼくのような素人は、いたく感 心するのだ。


書いても読んでもどうもよく分からないのが、その日本語が英語、あるいはその英語が日本語になったときどんなニュアンスを伝えるのかということだ。「いい キャップンでやした、悪たれは人一倍たたいた甘んど」という水兵の言葉。わがロープの会員相手なら「キャップン」でぴったりだが、世間一般では「いいオヤ ジでやした」の方がいいのかなあ、とか、その昔「たとえ‥でも」と習った「イーブン・イフ」でも、「・・たたいたけんと」というニュアンスも伝えるのか、 などこの冒険には思索や発見の小道が至る所にある。


近頃ぼくは少し生意気になって、訳文のない本に手を染めるようになった。でもこれはがなり難航する。一昨年、アメリカで買ってきたアイザック・アシモフの 「ネメシス」は半分ほどしか読んでいないのに訳本が出たようだし、去年のアン・マキヤフリのドラゴンシリーズの新作はまだ緒についたばかりだ。それでも外 国へ行ったとき本屋の中でお気に入り作家の本を探すというのもこれまたちょっとした冒険ではなかろうか。

 

 

 

 

(ザ・ロープニュースNo.15)

 


青森市内の三檣シップ

「悪いけど、ここは私の指定席・・・」
そういって肴倉さんは車の助手席にどっかと座り込んだ。昨年10月、ジェットエンジンのテストだろうか、すさまじい騒音の三沢空港の駐車場。肴倉さんと大柳さんがわざわざわれわれのために車で迎えに来てくださったのだ。

ところがこの車、尋常ではない。外見は40数年前にぼくが運転免許を取るのに乗ったトヨペットクラウンそのもの。観音開きの扉という時代物だがそれよりも重みがあってピカピカ。よく聞いてみればそれを模した、何度聞いても忘れてしまうれっきとした車体がベースの復刻版で大変乗り心地がいい。ディーラーのオーナーである大柳さんでなければ手に入らない限定車だ。

そもそもの始まりはオランダ旅行の同窓会だった。わざわざ青森から出席した大柳さんと久闊を叙して「恐山はいいですなぁ」と言ったばっかりに、「是非青森にいらっしゃいよ、案内してあげるから」ということになった。こういう機会でもないとわれわれでもこの辺はあまり知らないんだからとご親切な提案で、大いに恐縮しながらそれでも期待一杯の4日間の贅沢旅行となった。運転任せで下北半島一周なんぞは夢みたいな話で、なんもないところを見たいというんだから、と肴倉さんに笑われはしたものの、大きさに度肝を抜かれた五所川原の‘立ちねぷた’(立佞武多と書く)を含め話したいことは山とある。が、そこは割愛して青森港にある漁船博物館へ行こう。

青森市内に入ると肴倉さんがニヤニヤして、「ねぇ福田さん、あそこに船があるんだよ」という。ひょいと見ると、何とビルの上に3本のマストがそびえているではないか。畳帆されたダブルセールで、スパンカーこそないものの明らかにハーバーリグの三檣シップだ。青空を背景にまことに堂々としている。お二人とも内緒にして驚かせようとの魂胆と見た。

それ が大柳さんの会社で、「これは目立つでしょうなぁ」としばし感嘆。大柳さんは、なに建築に必要な柱をちょっと伸ばしただけで看板としては安上がりというが、 トップもクロストリーも備え、メインとトップマストをちゃんと継いでいるところが素人の装飾とは違う。一代で築き上げたオーナーでなければこうは凝れまい。

 

その事務所の程近く、海岸に面して博物館がある。正式には「みちのく北方漁船博物館」というが、その特徴は国の有形民俗文化財指定67隻の漁船を中心とし た「ムダマハギ型」漁船群の展示だ。ムダマハギというのは丸木舟の上半分をちょん切った底(これをムダマという)の両脇にタナイタを取り付けた準構造船。 ハギとは接ぎと書く。ごく簡素な構造だが青森を中心とした秋田、岩手の北部、北海道南部の波荒い磯で使うにはこの頑丈な船底が必要だという。この地方独特 の構造で‘北方’という名のゆえんでもある。

この博物館の入り口近くに船の模型が展示されていて、肴倉さんの連絡船群が圧巻だ。松前丸、津軽丸、第一青函丸など当時のままの姿が6隻ほどずらりと並んでいる。いずれも1920年代半ばのもので、おいおいぼくでも生まれていなかったぜという感じ。その近くに大柳さんの1/100のラ・クローンがでんと鎮座している。中でも面白いのが肴倉さんの‘車運丸’で、連絡船の車両運搬部分だけを艀にしたと思えば間違いない。機関車なら1両、客車なら3両、貨車なら 7両運搬したという。蒸気船で曳航するが、この艀には船首に縦帆が1枚あって曳航中にふらふらするのを防いだに違いない。大正3年就航で連絡船の嚆矢とい うところか。こうやって青森の会がいわば常設展示場を持っているのはうらやましい。

その他「操船シミュレーション」と称して大きな水槽で模型の船を動かすこともできる。戦艦大和とクイーン・エリザベス2世という何とも珍妙な取り合わせだ が、やってみると結構面白い。屋外にはバイキングシップやら、木造底引き網船‘日榮丸’やらがあってそれなりに楽しいが、保存状態がどうもいま一つという 感じだ。聞いてみるとこの博物館を熱心に推進した会長が亡くなって、今後の見通しがいくらかあいまいなようだ。これだけの資産を整備もせずに朽ちさせたら もったいない。何とかならないものだろうか。

 

 


2007.5.13.


土曜日のお酢

年甲斐もなく、ものを食べるときにこぼす悪癖がある。別にがつがつ食べるわけではないけれども、あたら下ろしたての背広をそのまま洗濯屋に直行させたこともある。それでもさる友人がシミ取りにいいのだというアルミの小袋に入ったウェットティッシュみたいなものを大量に買い込んで、しみったらしく幾つかくれたことがあるから、ぼくばかりの悪癖ではないんだろう。.


そんな食べこぼしの心配が、うらやましくも一切ないのが帆船時代の水兵たちの食卓、いや食べこぼしという質沢すら許されなかったのだろう。食卓仲間が1グループで自分たちが料理したというから、よけい無駄にはできなかったに違いない。それにつけてもいったい何を食べていたのか、食べることになるとどうも僕はよけいな興味が湧く。幸いボストンの海事博物館で手に入れた一覧表があるから見てみよう。(一覧表の掲載は紙面の都合で省略します)

 

「海軍公式規定食」とあって、食物の種類は限られている。牛肉、豚肉、牛脂、パン、小麦粉、えんどう豆、米、チーズ、バター、糖蜜、酢と酒の12種類である。このうち、パンとはこくぞう虫入りの堅パン、牛脂とは肉を鍋で煮るときに浮く脂で小説でおなじみのやつだ。糖蜜はラム酒の原料になる黒いどろっとした飴状の液体で、砂糖を採った残りかすだ。米国海軍は禁酒かと思ったが、「スピリット」とあるからコンスティテューション時代は英国と同じだったのだろうか。

 

こんな次第だから、毎日の食卓はわれわれの目にはきわめて奇妙に写る。570gの牛肉に113gの牛脂、225gの小麦粉にパン400gと酒235mlと いうのが日曜日一日の食卓である。月曜日は450gの豚肉とえんどう豆が235m1(つまり1.2カップ)にパンと酒となる。これが水曜日と木曜日に繰り 返されるが、えんどう豆の代わりに米になる。火曜日は牛肉とチーズ113gだけで、肉無しデーの金曜日に至っては米235mlにバター57g、糖蜜235mlにパンと酒というなんともいえない取り合わせになっている。

 

土曜日は月曜日と同じだが、酢が支給されるところが違う。いったい235mlもの酢をどうやって使ったのだろう。消毒用でないことは確かだから、小麦粉や バターと同様、一週間にわけて食べたのだろうか。しかし大型のジュース缶に相当する酢を野菜もないのに身体にいいんだぞといいながら、いや、おそらくいわ れながら飲んだ向きもあったのではなかろうか。その渋面が想像できて面白い。それにしても高蛋白多脂肪の食事で、酢が健康対策だったこともうなずけないわ けでもない。

 

ところで、食べこぼしの防止策というものがあるのだろうか。そもそも箸を手前に引く速度が早いと、物理学の法則に従って離れた食べ物が放物線を描いて洋服 に到着する。だから唯一の防止策は、箸を垂直に上げるしかない。もっともそれは理屈で、旨いものの前ではそんなお上品なことをしてはいられない。うちのかみさんは「もう、あぶちゃんしかないわね」というのだか、どうもねぇ・・・

 

 

(ザ・ロープニュースNo.7)

 

 


子供の領域

 ―羊蹄丸の親子教室を手伝って―

小松左京のSF短編集「時の顔」に収録されている「お召し」という作品がある。ある国の長官の下に届けられた三千年前の資料によると、ある日突然父母を含めた「おとな」がすべてこの世から消え失せたというのだ。そして現在、明日には満12歳になる長官がこの世から去る「お召し」を前にして、そこはかとない恐怖と期待を感ずる。この短編はどちらかというと悲劇的だが、この12歳、小学校6年生が大人と子供を分ける一つの境界であることにぼくはもろ手を挙げて賛成したい。

 
感性という点でいえば、おとなは子どもが成長した姿ではない。子どもは独特の感性を持ちながら、おとなになるときにその大部分を捨ててしまう。誤解をおそれずに言えば、それはおとながそれを強制するし、また世間がそれを許さないからでもある。だから独特な子どもの領域に首を突っ込める機会があればそれを見逃す手はない。今回の親子教室の手伝いにホイホイと参加したのはそんな下心もあった。そして見事にそれが当たったのだ。


岩倉さんたちが苦心して用意した小さなヨットのキットはよくできていて、何よりもセールや船体に好きな絵が描けるというのが子どもたちの関心を呼んだ。親子教室だから、子ども達は一応親の顔を立てる。
「ねえ、どうやって描くの?」
大方の親は
「好きなように描いていいのよ」
と答える。ぼくたちが予めどんなように描いてもいいし、絵だって字だって顔だって何でもいいんだよと念を押しているからだ。それでもあそこに見本があるだろ、というお父さんもいるが、描き始めてみればそんなことはどうでもよくなる。特に年齢の低い子供たちは好き勝手に描く。左上のお嬢ちゃんはセールの絵も船体塗装も大変奔放だった。多分長女ではないのだろう、お母さんの忠告をことごとく無視してわが道を行くのが第三者として見ると申し訳ないが可笑しくて仕方がない。

 

そう かと思うと見守り型のお父さん(おじいさんかも)もいてこれはお互いに楽かもしれない。田中会長の撮影した写真もお借りしてユニークな作品をいくつかご紹 介しよう。セールの絵もさることながらキャビンやハッチの部品だよと紹介した木片をラダーにしたり、バウスプリット風にしたり。さすがにラダーにする発想 には正直びっくりした。セールの絵も高学年になるほどきちんとしてくるが、自由度が少しずつなくなるようでもある。女の子はセールという概念よりも「きれ い」が先行するようで水玉模様の帆はその典型だ。

 

何よりもよかったのは子どもたちの嬉しそうな顔、作品を仕上げた満足感だろうか。小さな男の子はできた作品を床において走らせ、自分のヨットが波を蹴立て て海を走る有様が頭の中一にいっぱいになって、それ以外は何にも目に入らない。ラダーを船底に貼ったのは可愛い姉妹の妹のほうで、「すごいねぇ」といったら本 当に嬉しそうで今にもとんぼ返りをするんじゃなかろうかと思うほど飛び跳ねていた。そのお姉さんが写真の女の子だ。この発想に妹が触発されたらしい。そう かと思うと親子教室を象徴するような笑顔の共同作業もあって、普段から仲の良い親子なんだなあと思わせられる。もっともっと載せたい写真があるが、それが できなくて残念だ。


そんな次第でぼくたち手伝い組は存分に楽しませてもらったが、この準備は大変だったろうと思う。1日に15組が3回でこれが3日間あったから、予備を入れ て150セットを用意するのは大変だ。船体の微妙なカーブもマストの切り込みも、はてはブームやガフのワッパ取り付けまで縁の下の力持ちには感謝の言葉も ない。これはロープの会員ならではで、文句も言わず(言ったかもしれないが)これだけの準備か進んだのだ。


ぼくにとってもう1つの収穫は手伝い組を通じて仲間との交流を広げたことだ。例会と違って1日中お付き合いをしなければならないし自然に話題に花が咲く。 ぼくは会員歴こそ長いが船の製作も、会の仕事もまったくといっていいほど自慢できない。が、それを承知で、今回の経験から敢えてやっぱりみんなでこんな機 会を利用しようよと言いたい。何だかんだといっても面白いし、70歳も年下の若い女の子と付き合える機会はめったにないからね。

 

 


2010.8.24.

 



 42-27 オランダ海軍省の造艦会議  1:33  坪井悦朗 TSUBOI Etsuro
42-27 オランダ海軍省の造艦会議  1:33  坪井悦朗 TSUBOI Etsuro