セイレム Salem

 

 


アメリカ東海岸の北部、右手の人差指を曲げたように大西洋に突き出しているのが、おなじみのケープ・コッドだが、その指先の僅か北の岸にあるのがボストン である。

その丁度北東に当たるのがセイレムで、慣れた人なら車で30~40分の距離だと中山さんはいう。ボストン美術館で少しゆっくりしたものだから、国 道93号線に乗つた時にはもう午後6時を回っていた。それでも高緯度にあるからまだ十分に明るく、帰路につくのだろうか、あたりの車も結構多い。

運転役の 中山さんは、93号線から95号線に入つてピーボディから回ると遠くなるから、途中で地方道を行きましょうと言う。つまり、ナビゲーターのぼくに地図をよ く見て指示を出せということだ。慣れた人じゃないからなぁと、ぼくは緊張する。ボストン美術館で浮世絵をもう少しよく見ておくんだったと、わいわいやって いる後ろの3人が恨めしい。


セイレムへ

それでも地方道に入る道を見つけ、やれやれと一息つくと日も暮れかかり、ニューイングランドの郊外らしいゆったりした家並みを眺めることができるようになった。何しろ1軒の面積が広い。少し落ち葉もあつて、濃くなりつつある夕闇に窓の援かい灯が映える。こういう郊外は車でなければ目にすることほできないよね、と話しているうちにどうも右に曲がる道を間違えたらしい。いくら走っても地図にある町に出ない。何しろ、どこへ行つてもあたりは同じ表情で、目標というものがないのだ。
すっかり暗闇になった道にあるガソリンスタンドを見つけるころにはどこにいるやら、かいもく見当もつかなくなっていた。もう、こうなったらぼくの出番はない。中山大明神にお任せで道を聞いてもらう。どうもひとつ早く曲がりすぎたようですねとのたまうが、これはぼくの責任。それから何回か道を聞いてたどり着いた時には夜の8時に近かつた。30~40分が何と1時間半を上回ったのだ。到着した宿はザ・セイレム・インという。あたりは薄暗くて繁華街とは程遠く、森関とした住宅地と言つた風情。小さな玄関の奥に女性が1人、カウンターで受付してくれる。ホテルと違って大きなロビーはなく、玄関先の椅子に渡邊さんがへたり込んでお疲れの様子。そうだろう、ぼくだってクタクタだから、無理もないよね。


あのね、とチェックインを済ませた中山さんがぼくに囁く。渡邊さんが3階なんですよ、お疲れのようだから、福田さん、代わって戴けませんか、だと。ぼくだって年寄で、クタクタで、喘息持ちで、おまけに渡邊さんよりハゲているんだ、といいたいのをぐっと堪えて、ニッコリ笑って引受けたのが間違いだった。何せここはエレベーターがない。階段も狭い。民家なんだからそのはずで、つまりは重い荷物を背負って3 階までえっちらおっちら上がらなければならないことになった。もう死にそう。

 

この家の地階はコートヤード・カフェと言う立派な名前のレストランになっていて、食事は全部ここでとる。まぁ、遅いじゃないの、どうしたのよと、中山さん が電話をかけてはくれたものの、予想外に遅くなったので、ちょっとアフリカ系の血が入つたと思われる娠やかな女将、いやおねぇさんが派手な身振りで迎えて くれる。人間、正直なもので、本場もののオマールエビの夜食に舌鼓を打つようになったら、とたんに元気になった。28ドルの食事は高かったが、中山さんの 部屋で夜中までわいわいと騒ぐことができたのも、このおかげだろう。

ここはB&B(Bed&Breakfast)と称している宿だ。B&Bというのは普通なら民家が寝床と朝飯を提供するいわば簡易 宿泊所だが、わがセイレム・インはB&B といいながら1泊141ドル50㌣という立派なホテル並みの料金を取る。それもそのはずで、ここは150年も前にキャプテン・ナサニエル・ウェストのため に建てられた家だと銘板まである歴史的遺産とも言える建物なのだ。朝になって分かったのだが、濃いレンガ色の堂々たる建物で、道路に面した窓はずらりと9 つも連なっている。もっともこれは昔の家を2軒一緒にして宿にしているからだが、そのために泊まる方は隣の部屋に行くのに一度1階まで降りてまた上がると いう不便を強いられる。
しかし、そういう事さえ我慢すれば、誠に快適な宿といえる。現代的な金属質の軽快さというものは微塵もなくて、いかにも重厚。19世紀中ごろの船長達の自 宅は、かくあったのかということを満喫できる設えである。おまけに、この宿は誠におおらかで、小さなロビーには濃緑色の地に花柄をあしらった長椅子があ り、小卓にはナイトキャップ用のワインがいつでも飲めるようになっていたり、山盛りのキャンデーを入れた鉢が何気なく置いてあったりする。転げ落ちたら怪 我でもしそうな高いふかふかのベッドに包まれて、その夜はぐっすり眠った。

 


魔女の街

うちのかみさんはことのほか魔女が好きで、ぼくがセイレムヘ行くことを察知するや否や、どこで仕入れてきたかそこが魔女の街であることを知り、なんでも魔 女をお土産に買つてこいという。まあ、本物は無理だから、人形やらペンダントやらを熱心に探す羽目になった。事実、セイレムという町は、アメリカで唯一魔 女裁判が行われたところで、至るところに魔女の看板があり、街中にいると、ここが貿易で栄えた港町であるとはとても思えない。

1995年10月12日、レーズン入りのシリアル、ラズベリーのジャムをつけたパン、チーズ、絞りたてのオレンジジュース、コーヒーにバナナというたっぷ りな朝食を済ませたわれわれ、いやぼくは、雲ひとつない日差しの街へ繰り出した。同じアメリカでも、この町は部屋に鍵をかけなくとも大丈夫よといわれたぐ らい安全なところで、案内役の中山さんも今日は1日自由行動にしましょうという。彼は趣味のスケッチを楽しみたいという思惑もあつたようだし、ぼくも一人 歩きは望むところ。あとの3人は一緒の行動だという。

道路に面した鉄格子の中に女性が2人、首を吊るされている・・・
道路に面した鉄格子の中に女性が2人、首を吊るされている・・・
「魔女の土牢博物館」の中では魔女裁判の寸劇を見せている
「魔女の土牢博物館」の中では魔女裁判の寸劇を見せている

知らない街、それもアメリカの東海岸の田舎町を一人で歩くなんてとても新鮮だ。並木も多く、上半分は紅葉して早朝の陽に映えている。だれに煩わされるわけ でもなく、森閑とした木造の住宅街を歩くのが何ともいえず楽しい。ふと向い側を見ると黒く塗ったトンガリ屋根の怪しげな家がある。「魔女の家1642年」 と看板があり、さては、と寄って見ることにした。が、なんとまだ魔女が寝ているらしく開いていない。17世紀に寝坊の魔女がいるとは知らなかった。

「セイレムYMCA入口→ 」の看板にも白い魔女が箒に跨って飛んでいるし、街中のポールに翻る赤い旗にも魔女がいる。アメリカ中の魔女がここに集まっているんだろうかと考えている 矢先、道路に面した小さな鉄格子の中にロングドレスを着た女性が2人、首を吊るされているのが見えた。「魔女の土牢博物館」という。もちろん小さな人形だ が、中に入ると受付の女性が、博物館と思ってもらうと誤解を生じるのだが、とおっしゃる。なるほどここはミューゼアムとは言うものの、魔女裁判の寸劇を見 せるところだった。後で見た「魔女博物館」も同じように劇を通じて魔女裁判の内容を紹介している。こちらは日本語のイヤホーンで説明が聞けたのでよく分 かったのだが、セイレムの魔女裁判はわれわれが聞かされた中世ヨーロッパの魔女裁判、つまり魔女とされた女性を教会で裁くのとはかなり違う。

情緒不安定だつたのだろうか、若い女性がいたずら心もあって告発したために、年配の女性たちや立派な大人の男まで魔女や魔法使いとして裁かれたらしい。最 終的にこういつた事情が明らかになるのだが、これらの劇を通じて見るとかなり教訓的で、根も葉もないうわさに惑わされて人を殺めることはもう金輪際止めよ う、というのが主題だどアメリカで唯一回の唯一無二の魔女裁判、という強調がそれを示している。ニューイングランドの堅固な健全性がかいま見えて、劇は 面白くなかったけれども何となく気持ちが和らぐ。

 

この町の中心街、エセックス通りとニューライブラリー通りの交差点がファスト・インディア・スクエアという。そこにあるピーボディ・エセックス博物館見学が午後のお目当てだが、まだ時間があって、かたわらの木陰でスケッチしている中山さんの後ろから覗き込む。

軽装の4、5人が通るばかりで、石畳の道路にはあまり人影もない。時に昔の電車のような設えの観光パスが行きすぎる。ぽかぽかとした日差しの中、ゆっくり時間が流れてこれまでの忙しかつた旅がうそのように思える。やがて午後1時、3人組も合流して昼飯にしようではないかと相談がまとまり、安レストランに繰り込んで楽しい思いをしたが、詳しいことはロープニュース16号「セイレムのミルクティ」をご覧頂きたい。

魔女のお土産はいろいろ買い込んだが、ぼくのお気に入りは「お尻丸出しプクプク魔女」で、本棚に長いことぶら下がつて愛嬌を振りまいていた。さすがにお尻が破れて綿がはみ出したのでごみ箱行きになったが、どうして日本であれを売っていないんだろう。

 


セイレムという街

街の中心にあるピーボディ・エッセックス博物館は、入ると荷物を預けなければならない。つい忘れて鞄を持っていたらガードマンが「エクスキューズ・ミー・サー」という。あっちに荷物を預けてほしいということで、丁寧なものだ。それというのも入館料を払うとパスをくれて何度でも外と出入りができるので、空身でないと何かを盗られたと疑われるからだろう。
ここは全米最古の博物館という。何しろ捕鯨や交易の中心となった港だから、船長たちがいろいろ集めた品々が所狭しと並んでいる。文字どおり世界中の品がありその中には日本のものもあるが、船キチの目からはあまり収穫はない。僅かに船上の鯨油採取の釜がある程度で、期待した帆船の模型もない。歴史的なものに関心があれば、この博物館は宝の山だが、残念なことにわれわれには時間がない。早々に切り上げて単身港へと出かけた。

博物館を南に下がると、海岸沿いにダービーストリートという道があって大変眺めがいい。海側に小さな建物があつて「セイレム・マリタイム・ナショナル・ヒストリックサイト」と大げさな看板がかかつている。中に入ると誰もいないが、店番のおじさんがずれた眼鏡越しにじろりと睨む。奥に2,3の帆船模型を置いてあるので見てもいいかと断る。が、おじさんはフンと鼻を鳴らしただけだ。いけないとは言わないから、奥に入って見たがどうも秀逸というには程遠い。しかし収穫はあった。アメリカとカナグの海事博物館の本で、これが現在横浜帆船模型同好会の機関紙「かたふり」に連載している訳文の種本になつている。11.5ドルはその意味で高くない。
このサイトの向かい側が昔の税関で、こげ茶色のレンガで装ったなんとも立派な2階建ての建物だ。往時の隆盛を偲ばせるが、中に大きな平衡秤があつてU.S.No.2とある。面白いのはこの税関のすぐ脇が大きな倉庫で、なんと帆船の絵とともに「私掠船倉庫」と麗々しく表示されている。そうかあ、ジョン・ウィリアムズの書いた「マーカム家の海の物語」(至誠堂) に出てくるのはこのあたりの海域だものなぁ、私掠船といってもおそらく「アメリカ海軍」に近かったのだろうと思いを致す。
海岸には2つの埠頭があって、セントラル埠頭とダービー埠頭という。このダービー埠頭は恐ろしく長い埠頭で、延々と歩いたが先頭の灯台まで行くのをあきらめたほどだ。案内図で見てもここからあの博物館までの距離よりもっと長い。空は真っ青に晴れ渡り、海は穏やかでかなたに点々と白いヨットが見え、手前にはスマートなスクーナーが舫っている。このあたりは人っ子一人おらず、両手を上げて深呼吸しても、お― いと呼んでも誰はばかることもない。

魔女と並ぶセイレムのもう一つの顔、ナサニエル・ホーソンの小説「七破風の家」の舞台となった家
魔女と並ぶセイレムのもう一つの顔、ナサニエル・ホーソンの小説「七破風の家」の舞台となった家

魔女と並ぶセイレムのもう一つの顔、それがナサニエル・ホーソンの小説「七破風の家」の舞台だ。実際に7つの破風を持つ家があって、それが小説の舞台 となったのだ。ここは観光の名所にもなっていて、1804年に生まれたホーソンの家は1750年以前に建てられたということだが、ここらあたりの景色は 200年以上も動いていないらしい。

案に相違してここは名所を訪ねる人たちが大勢集まっていて、ビジターセンターで聞くと受付の綺麗なおねえさんは、
「そうねぇ、30分以上は待たないとね。見学ツアーは1時間よ。」
という。一番の町外れで時間を浪費するわけにはいかない。残念だけれどもあきらめて写真だけ外から撮った。
なにしろこっちは歩かなければならないのだから、時間はかかるけれども面白そうなところにはすぐに寄ることができる。疲れてもきたし喉も渇いた。傍らにピッカジング・ワーフという店があつておいしそうなアイスクリームを売っている。
「アイスクリーム? サイズは? 」
「一番小さいの。」
太っているが愛想のいいおばさんがにっこり笑って

「スモーレスト! 」

と差し出したアイスクリームは一握りもあるコーンに3つのこぶのついた、日本だったら特大アイスクリームも顔負けの量だ。宿へ戻る道すがら、これを舐め 舐めアメリカ人のいう標準サイズとはどれだけの量かとおそろしくなったし、途中寄った昔のお墓ではこの1.7ドルのためにすっかりお腹が冷えた。でも、こ れぐらいエネルギーを補給しておいてよかったのだ。宿へ戻ったらとんでもない重労働が待っていた。

 


船の値段

「スモーレスト」容器に入つた大量のアイスクリームをやっと消化して宿に帰ると、何だかごたごたしている。そのうち、中山さんが済まなそうな顔をして頭を 下げた。「すいません、どうも連絡の手違いで同じ部屋に2泊できないんです。別の建物に移ってくれって言ってるんですが…」が、もくそもなく、われわれは 2ブロックばかり離れた、まあ、いわば別館に移動しなければならない。幸いなことに、ぼくは今度の旅行でスーツケースでなく二つ折りの巨大な衣装バッグを 使つていた。これは中山さんもそうで、それでなかったら5人分の堅いスーツケースを車のトランクに収納できなかっただろう。

しかし、この時ばかりはそれが裏目に出た。衣装バッグは車がついていないのだ。3階の部屋から20kgになろうという荷物をエレベーターなしで下まで降ろ し、喘息だと宣伝しても誰も手伝ってくれない。2プロックを、ゼイゼイ言いながら肩に担いで歩かなければならなかった。おまけにまた2階まで引っ張り上げ るという作業付である。同じ年寄りでも渡辺さんのように弱々しくないと損するなぁ、とこの時ばかりは心底そう思った。もっとも渡辺さんとはかなり年の差が あるから、あまり文句もいえない。
ところが、ところが、この別館、セイレム・インのカーヴェンハウスというのだが、これが何とも好もしい。ぼくの部屋は広々していて宴会でもできそう。その 部屋にでんとダブルベッドが一つあるだけだ。しかも、そのベッド、おそろしく高くて、はしごというと大袈裟だが2段もある踏み台がついているほどだ。昔の 持ち主の頃はおそらく部屋一杯にいろいろ家具を置いていたのだろう。それに見合うべッドだったに違いない。

セイレム・インのカーヴェンハウスの部屋は宴会ができるほど広々として、ベッドは高くて踏み台がついている
セイレム・インのカーヴェンハウスの部屋は宴会ができるほど広々として、ベッドは高くて踏み台がついている

 

本館と同じように、カーヴェンハウスは元々商人のジェイムズB.カーヴェンとキャプテンのサミュエルR.カーブェンのために1854年ごろに建てられたものだと銘板にある。どの歴史的建物を見てもこの商人、つまリマーチャントと書いてあるほうが上だから,日本語でいう単なる商人というのではなく、おそらく資本家とでも訳したほうが合っていそうだ。船と航海費用に投資して上手く行けば莫大な儲けがあったに違いない。その一部がこの建物であり、ピーボディ博物館にあるような品々だろう。ぼくはその19世紀の富の中にいるのだ。突然の電話で我に返った。中山さんからで、何でも面白い店があるから行ってみないかと言う。別行動の3人組が行の見物をしている内に鈴木さんが「ネイチャー」の呼び掛けに応えなければならない状態になり、どうしようもなくて渡辺さんが直ぐ傍の店に頼み込んだという。無事呼び掛けには応じたが、気が付くと偶然にもその店が帆船模型の販売店、製作修理店であり、大いに意気投合したというのだ。

「ちょつと遅いんですけどね、何とかなるでしょう。」
何とかなった。もう既に閉まつている扉をノックすると、扉が開いていかにもニューイングランド人という風貌の紳士が顔を出した。実はこれこれ、われわれもその仲間でと言いもあえず、どうぞ、どうぞと招じ入れられた。この店のオーナーで、モデラーでもあるR.ミッチェル・ウォールさんは、コレクターとしても名のある人らしく、顧客名簿にはスミソニアン協会やマリナーズ・ミューゼアム、ボストン美術館、ミスティック海港博物館、それについ先日訪れたUSS.コンスティテューション博物館まである。模型談義に花が咲いたが、もちろんこれはほとんどがウォールさんと中山さんの間のことだ。話を聞いていると、アメリカの一般客相手の水準というか、一つの傾向というものが見えてくる。

特徴的なのは、木造帆船と現代艦船の区別というものを心情的にもしていないという点だ。これは歴史的な繋がり、と見たほうが正確だろう。また、彼の商売という線で言うと比較的近代の、クリッパータイプの船が人気らしい。事実、昔の大型帆船(戦列艦、フリゲート艦クラス)はアンティック・モデルとして別ジャンルにしている。小型近代船が売れているのは経済的にも入手しやすいということもあろうが、逆に言うとそれだけ一般の人が気軽に船を買って楽しむということでもあるのだ。もちろん、気軽といつても安いものではない。ブリッグやスクーナークラスで3000ドルから4000ドル、1/96のHMSチェロキーで8200ドルだ。現代艦船では船そのものと同時にジオラマ形式が多くて、その面白さを楽しむ傾向が強い。波の様子やら、戦闘で損傷をこうむった状況やら、どうも身近な経験が役に立っている様子も伺える。このあたりもわが国と違うところだが、値段は大体3000ドルから7000ドルぐらいだ。
模型に値段をつけるというのは、客観的に評価してもらうという感覚があつて、必ずしも売るためばかりではないらしい。あなた方の模型にも値段をつけてあげますよ、とウォオールさんが言つていたのもそんな感じだ。まあ、アメリカの模型船市場でいえば、アンティック物は別として、上限ほぼ1万ドルと見たがどうだろう。

その夜、ケープ・コッドという魚の本場で寿司を食べなければ来た甲斐がないと主張したのは鈴木さんで、この人は新鮮な魚さえあればなんでもOKという。車を飛ばして行つた郊外の「朝日」という日本料理店。刺身とチラシ寿司はさすがに旨かったが、1人32ドルはべらぼうに高かつた。寿司屋はどこへ行つてもこんなに高いんだろうか。

(福田正彦)