カシス

 

 

福田 正彦 

 


ホレイショ・ホーンブロワー艦長は、平和時の半給の海尉という苦節の時を経て“本物の”海尉艦長としてスループ艦ホットスパーに乗り組んだとき、自分の好みの食料を調達するほど金の余裕はなかった。


『メイスン夫人が卵を六ダース・・と、塩をきかせたバターを六ポンド買ってきてくれた。あと、砂糖一かたまりと幾瓶かのジャムで、金が無くなってしまった。』(『 』は菊地光訳)というわけだ。下宿屋の女将メイスン夫人の娘マリアと結婚したばかりとあってはそれもやむを得ないことだったのだろうが、そもそも何で「艦長の個人的食糧」を調達しなければならないのか不思議に思う向きもあるかもしれない。

 

軍隊というところは、昔から衣・食・住はただと相場が決まっている。おまけに給料までくれる。その代わり、軍人は自らの命を賭けることになるのだ。しかし、軍人には2種類あって、士官あるいは将校といわれる階級とそれ以外の、いってみれば兵隊という階級である。

 

今でこそあまりいわなくなったが、戦後アメリカの兵隊さんをGIといった。GIとはガバメント・イッシュー、つまり官給品という意味で、衣食住すべて軍隊から支給される階級、兵隊さんを意味したのである。士官は、規則の許す限り、衣服や食料に自由が認められたようで、それに対しては有料だった。帆船時代、有力な艦長達がボートに特別な装いを凝らし、クルーに派手なシャツを着せたというような伝統が尾を引いているのだろう。


なけなしの卵から2つを使ってフライドエッグスを作らせたホーンブロワーは、最初の2個が腐っていて、あとの2個も変な匂いがするのを知った。『いたみかけている卵を買ってくるというのは、いかにもメイスン夫人らしいやり方である。ホーンブロワーは・・卵の不満はジャムで補えばいい、と思った。』のだが、『・・さあ、いよいよジャムだ。黒すぐり!よりによってこんなものを!』彼は憤激のあまり呪いの言葉を吐いて当番兵を震えあがらせる。『ホーンブロワーはジャムが好きであったが、あらゆる種類の中で、黒すぐりをもっとも好まなかった。ないよりはまし、ともいえないくらいであった。』


黒すぐり、英名ブラックカラント、仏名カシス。ぼくはあらゆるベリー類の中でこのカシスが一番好きだ。あの好もしい独特の香りと、輝くような濃い赤紫のカシス の味を教えてくれたのは、1965年のパリにいたW子さんである。

生まれて始めての海外旅行なのに、3週間もの見本市でカルピスを飲ませるというむちゃく ちゃな計画だったが、パリ日本館の館長羽田明先生は、預かっていた留学生のW子さんを派遣してくださった。彼女はわがブースをやりくりしてくれ、その上、 会期が終わってから個人的に街を案内して、いかにもフランス的なカシスの味を紹介してくれた。


当時の日本にカシスはリキュールの形でしかなかった。大事に持ちかえった1ビンの濃縮ジュースを薄めてちびちびと飲んでも、たちまちなくなってさみしい思 いをしたものである。最近になってカシスの濃縮ジュースが輸入されて、氷を浮かべた一杯が夏の楽しみの1つになっているし、カシスのジャムと見たら買いた くなるぼくを引き留めるのがかみさんの役割になっている。


それはともかく、帆船時代の有力な提督や士官たちの食卓はどうだっただろう。戦列艦トナント号ペリュー艦長主催の晩餐会の様子は圧巻である。『・・巨大な 銀の皿おおいがサッと取り払われると、見事なパイが現れた。パイ皮が城の形に焼き上げられ、その小塔に紙のイギリス国旗が立っている。』その中味は固い ビーフをくたくたになるまで煮たものにキドニーを加えたものだ。見事に太らせた鶏は、海軍のビスケットに済む穀ゾウムシを集めて餌にしたのがその秘訣だ し、ホーンブロワーが何気なく取ったポークのガランティンに入っている黒い色の薄片は、フランス松露と書いてあるがトリュフだろう。大小の干しブドウと二 色のジェリイで作られたプディングのゼラチンを作るのに『例の牛の足を煮たり漉したり、大変な手間がかけられているのに違いない。』

 

こうして、海尉艦長になり立てのホーンブロワーは、いつの間にか『万が一にもポストキャプテンになり(拿捕)賞金で豊な身分になったら、艦長室の貯蔵食糧に大いに関心を払わなければならないな、と考えていた。』ということになったのである。

 

フ ランスのブレスト軍港の監視という任務に就いて40日、さすがのホーンブロワーにも変化が訪れる時がきた。『これが黒すぐりのジャムの最後のつぼである。 ホーンブロワーはつぼの中身がしだいに減ってゆくのを残念そうに見ながら、強いられた結果とはいえ、自分がいつの間にか黒すぐりジャムの味が好きになって いるのを認めた・・・』

 

継続は力、ということか。それでもあのホーンブロワーが、と何となくおかしい。ホーンブロワー・シリーズを読む、いささか邪道な方法である。

 

2003.6.28.