船首像の魔女ナニーは残った

 

安藤雅浩


修復工事と火災
グリニッジ標準時間5月21日(月)未明の4時45分頃、ロンドン・グリニッジの乾ドックに保存されていたカティーサークの船体から火災が発生しました。消防車8台と消防士40名で消火作業にあたりましたが、火は1時間43分も燃え続け午前6時28分に鎮火しました。人気のない未明の出火のためロンドン警視庁で原因を調査中です。同船は建造から138年経過のために痛みが酷く、今まで公開中でもどこかの修復工事をエンドレスに行っていました。グリニッジ観光の際、同船を訪れて全体を観ることが出来た人は幸福な人と云われています。そこで、船の内外装を建造当時の状態まで復元することになり、昨年11月から一般公開を中止し2年間かけて大規模修理を行っていました。出火当時は分解中であったためマスト、デッキ材、船首・船尾の飾り、船内の船首像などは取り外されて別の場所に保管していたため損失を免れました。損傷状況は焼跡の航空写真の如く船首・船尾は無傷、大部分の鉄製甲板ビームは形を留めています。損傷の大きい部分は主甲板(weather)、その下の中間甲板(tween)およびその下の船倉部分で、キールは無事でした。一番損傷しているのは中間甲板で出火場所と見られています。全体としては例えば四切りの未熟なスイカ、メロンを食べたとき残った厚皮部分のような状態で、損傷率50%と予測されています。今後の修復で鍵となるのは残った鉄製のフレームと甲板ビームの強度がどの程度ダメージを受けているかで、分子レベルの組織検査で対策が左右されることになります。不運なクリッパーカティーサーク19世紀初頭、中国とヨーロッパの貿易は東インド会社が独占し、紅茶はヨーロッパに1年余かけて運ばれていました。

1834年にこの独占がなくなると、ヨーロッパの船主達は中国貿易に参入して、イギリスの国民的な飲み物である紅茶をどのようにして新鮮なままロンドンに運ぶかに関心を持ちはじめました。特にアメリカの帆船がその年の一番茶1500トンをロンドンに届けたときは、たちまち高値で売れて利益は帆船建造費の3分の2に及ぶ膨大ななものでした。この輸送革命はイギリスに衝撃を与え、紅茶貿易の快速船(ティークリッパー)が次々と建造されました。クリッパーとは疾走する(クリップ)の動詞から生まれた言葉です。既に蒸気機関エンジン搭載の鉄船の時代が始まっていましたが、帆船は燃料の石炭とエンジンスペースが不要であり、船足も早く、積荷が多いのが特徴で存在価値は充分にありました。カティーサークはこのような環境の中で、後にティーレースを競うサーモピレーなどと共に同時代に建造されました。当時の船体は鉄板張りが主流になりりつつありましたが、鉄板は紅茶の味を損なうと考える迷信からカティーサークは木材外板にフナクイムシ対策の銅板張り、キールとフレームのみ鉄製でした。右の写真は火災前に木材外板を剥がして鉄製フレームの錆落し作業をしている状態で、白色塗装部分が鉄製のフレームでH型断面になっています。カティーサークの船主ジョン・ウイリスはカティーサーク建造の20年前から数隻のティークリッパーを所持していましたが、ティーレースに勝利出来ないために世界最速で荒天でも高い安定性のあるティークリッパーをスコットアンドリットン社に発注し、1869年(明治2年)11月22日カティーサークが進水しました。しかし皮肉なことに進水5日前の11月17日にフランスの外交官レセップスが工事を進めていたスエズ運河が開通し、帆船の時代は終焉に向かうことになりました。スエズ運河は開通の300年も前からベニス商人やナポレオンが構想を抱いていたが、実現しなかったもので、その効果はソロバンの時代にスーパーコンピューターが現れたような状況でした。なにしろ、スエズ運河を通ると航行距離は南アフリカの喜望峰を周るのと較べ半分以下になりますから、勝負は付いたようなものです。カティーサークは進水時から不運に見舞われるます。それならばと帆船もスエズ運河航行を計画しても延長160kmの殆どは無風地帯で航行できません。やむなく喜望峰を周りの紅茶運搬を続けますが、次第に蒸気船に取って代わられ紅茶運搬は7年間で8回の航海で終焉しました。約28名の乗組員は荒海の中、107日から122日で中国からロンドンを航海したのですから偉業で、後に帆船時代の最後を飾ったクリッパーとして名を残すことになりました。

 

カティーサークの命名
カティーサークとはスコットランド語でカットして短い(cutty)ヴィクトリア時代の下着シミーズ(サークsark)のことで、船名は古い伝説であるロバート・バーンズ作の詩タムオーシャンターに登場する魔女ナニーに由来します。当時の船名としては度肝を抜くような名前でした。お話は酒好きのタムが夕方、靴修理屋の友達と深酒してご機嫌状態で灰色の雌馬マギーに乗って帰宅していました。その夜は雷と稲妻が光る嵐のような天候でタムが教会の庭を通りかかったとき、魔法使いと魔女の一群が赤々とした炎の中でバグパイプや角笛を吹きながら踊っているのを見てびっくり仰天しました。タムは馬を止めて、よく見ると老魔女やお話にもならない醜い魔女の中に若くて美しい魔女ナニーを見つけました。ナニーは短い下着のシミーズのほかは何も身に着けていませんでした。日本なら18才未満入場禁止のショーです。魔女ナニーはタムに覗き見られたのに気づいて追いかけてきたため、タムは怖くなって酔いも覚め小川に向かって馬で逃げだします。タムは魔女が水が流れる川を渡ることができないことを知っていました。命がけで馬を駆って逃げるタム、それを逃がすものかと憤怒の形相で追っかける魔女ナニー。タムは魔女の早足に段々と追いつかれ橋のたもとまでたどり着き、魔女ナニーの左手が伸びてきた瞬間、タムの体は橋を渡って逃げ切り魔女ナニーの左手は雌馬マギーの尻尾を掴みごっそりと引き抜きました。馬の痛さは想像もできないほどでした。カティーサークの船首像は左手で馬の尻尾を握りしめた魔女ナニーです。その顔は美しい魔女の優しい顔とはほど遠く、怒りまくった表情をしています。船首像は寄木を彫刻して作りますが、屋外にさらしておくと痛みが早いので、カティーサークの船首にはダミーの魔女ナニーを取付け、オリジナルは貨物昇降用ハッチ下の吹き抜けに写真のように展示していました。

 

紅茶運び撤退後とイギリスへの帰還
1878年にカティーサークは紅茶輸送を撤退してからアメリカバッファローの角やオーストラリヤの羊毛をロンドンに輸送するなど様々なものを運びましたが、紅茶輸送に較べて利益率があまりにも悪く、船齢を重ねると補修費も嵩むため、1895年ついに船主はポルトガルに売却しました。以後、27年間ポルトガルと南米、東アフリカ植民地との輸送業務に使われました。1922年、イギリス人船長ドウマンに買い上げられ、補修して航海学校に寄贈され練習船として使われ、1954年、カティーサーク協会の所有となりエリザベス女王の夫君、エジンバラ公の尽力でグリニッジのドライドックに保存されました。以来、グリニッジ観光名所の一つとなり毎年何百万人か訪れていました。ロンドンの遺産としての復元船体の火災は世界に唯一現存するティークリッパーの損傷で、とても悲しいことですが、貴重なマスト・ヤード・飾り・備品および船首像が被災を免れたことから、復旧に向けた動きがスタートしました。被災翌日の5月22日にはエジンバラ公が被災現地を訪れ、復元への寄付集めも始まりました。8月7日現在の寄付額は53万ポンド(約1億円)を超えており、まだ不充分ですがカティーサークはロンドンの遺産との認識から、復元は軌道に乗ると見られています。イギリスの税制は寄付金の28%が所得控除される仕組みで、寄付が集まりやすいお国柄になっています。