エッセイ集

イギリスという国

         
    イギリスという国 B-32  
    魚盗り B-25  
    砕氷船オーロラ B-26  
    ハンザ都市 B-27  
    ブルーノーズのペギー B-28  
    技術のマス B-29  
    三河大島 B-30  
    いかつけ B-31  

 


模型は人生の道標(前編)

 

 

彦沢正明 

 

 

 本稿を始めるにあたって、最初に皆さんにお聞きします、皆さんの人生にとって模型とはなんでしょうか?私にとって模型とは、これは一言では云い表せませんが、敢えて云うなら人生の道標(マイルストーン)のようなものです。

 

私が模型を作るようになったきっかけは幼児のころに親戚が和船(伝馬船)を作ってくれてそれを湯船に浮かべて遊んだことだと思っています。随分長い間、それで遊びました。今思い出しても良くできていたと思います。その影響か幼稚園に入るころから板切れに釘を打ってそれで軍艦を作った心算になったりして遊んでいました。

 

小学校の入学式当日に、親戚の庭で板に釘を打って従兄弟(いとこ)と遊んでいる写真が今も残っています。小学生の頃は軍艦の模型キットを買って貰って作っていました。三笠・長門等々、青焼の図面と板切れが入っているだけのキットです(確かイタリアのアエロピッコラ社の初期の帆船模型キットも青焼の図面とキールやフレームの図面を貼ったベニヤ板が入っているだけだったと記憶しています)。それと並行して紫電改や零戦のソリッド模型を作ったりしていました。

 

高学年になると無塗装のブリキの車体とモータを買ってきてOゲージの電車を組み立てたり、タミヤ模型の木製のスターリン戦車で砲身の先の電球が点滅するのを作って級友と障害物競争をさせたりして遊んでいました。その間、小学校5年生の時にマルサン商店がマッチ箱シリーズと称するプラモデルをシリーズで発売し、そのF6Fのキットを駄菓子屋(新潟弁で“なんかや”)で買ったのが私のプラモデル制作の第一号です。接着剤はアンプルに入っていて、それを同梱のハート形のヤスリで切って使っていました。

 

そうこうしている内にマルサンから50分の1のアルバトロスDⅢ戦闘機の模型が出て、これを買って組み立てた時は子供心にも衝撃でした。今までは木を削って苦心惨憺していたのが、あっと云う間に組上がってしまいます。また箱絵の素晴らしさは当時の日本製の模型キットには無いものでした。今考えると中身も箱絵も米国オーロラ社のフルコピーだったのですが。

 

中学校に入る頃には他の模型作りを止めてひたすらプラモデル作りに熱中しました。小学校の時に家で勉強した記憶は殆どありません、道具揃えが面倒で、一週間分を全てランドセルに詰めて家で開けることなく通学していました。中学校入学の頃には勉強机がペンキと切傷で膾(なます)のようになっていました。 この頃、海外のプラモデルはとても高価でレベルやモノグラムの貼箱入りキットが買って貰えず、エアフィックスの72分の1の袋入りのシリーズを買って作っていました。確かマルサンの50分の1の貼箱入りキットと同じ値段の250円だったと思います。学校で級友がモノグラムの48分の1の貼箱入キットを持ってきて皆に自慢していたのを羨ましく眺めていたのが記憶に残っています。

 

このころは地方都市の新潟では外国製の模型キットを買うことが出来ず、新橋にあった模型店に書留で送金して買っていました。書留の書き方が分からない級友から随分と頼まれて買っていましたので上得意と思われたのか、海外メーカーのカタログを定期的に何冊も送ってくれたものです。今思えば、あの時のカタログ、特にオーロラ社のそれをとっておけばプレミアム価格で売れるのにと残念です。

 

一度、母が東京へ遊びに行く時に連れて行って貰ってアメ横の模型店でHubley社のダイキャストキットのフォードA型フェートンを買って貰ったのが中学時代の一番の思い出です。値段は忘れましたが、随分高かったと思います、母が粘って値引き交渉をして買ってくれました。ただし、本当は欲しかったフォードA型セダンのキットは、高価なため駄目でそれより安いので我慢させられましたが。

 

高校に入る頃になると新潟市内でも老舗の玩具店が模型部を作って海外のキットを扱うようになりました。それで高校の入学祝にモノグラムの72分の1フォードトライモータ(バード少将の南極探検機)を買って貰いました。それからは東京へ書留を送ることは無くなりました。またそれまで強制的に貯金させられていた盆暮の小遣いが使途自由となり、それなりの値段のキットが買えるようになりました。高校入学後は帰路によくその模型店に立ち立寄っていました。店の店長とすっかり懇意になり模型談義の傍ら、時には箱が破れたりして店頭から下ろした高価なキットを貰ったこともありました。高校の時が一番模型を作ったと思います。新潟地震で家が壊れた時は、真っ先に模型を運び出して借りたプレハブ小屋へ入れました。

 

模型制作に加え3年になってからは、オートバイの分解と組立てに凝って勉強はさっぱり。見かねた級友が“お前は本当に進学するのか、大丈夫か?”と忠告してくれたのが3年生の12月でした。慌てて受験先を探しましたが私の偏差値では何れも見込みなし。その時考えたのが、偏差値が低くてコンピュータ教育をやっている大学、それも関西にある奴、“それなら毎日関西旅行が出来る”でした。

 

何とか大学に入学できたのですが、その時母が云ったことには“お前が模型に注ぐ情熱を勉強に使っていたらもう少しましな大学に入れただろうにね”でした。父は“お前に勉強しろと云わないで放置したのは自分の一生の不覚だ”と云いました。

 

これには流石に応えて、大学に入ってからは同じ学科の中では人並み以上に勉強しました。そのため在学中に作った模型はタミヤの35分の1ヤークトパンター一つです。お蔭で何とか就職できましたが、時代は高度成長の真只中。10ケ月間で休日3日、この間の平均残業時間180間。自分に限らずこの時代の日本人は皆こんな具合でした。

 

サラリーマン時代は平成を迎えるまでは殆ど模型制作をしておりません。平成元年を迎えた頃、たまたま臨時収入があり、それで前から欲しかったハセガワの複葉機の木製構造模型を老舗の模型店に買いに行ったことがありました。ところが、すでにメーカーが廃版にしていて店に無いとの店主の返事にがっかりして帰ろうとしたら、奥から店主の母親が出てきて“それなら死んだ父ちゃんが作る心算で仕入れておいたのが倉庫にある筈”と云って出して来てくれました。しかも10年前の定価で売ってくれました。

 

縁を感じてガムシャラに作り続けました。正月休みも、食事以外は部屋に籠って作り続けました。そのため愚妻が血相を変えて“あんた気が狂ったの、正月なのに食事以外部屋から出て来ないで、何を考えているの!”と部屋に怒鳴り込んできた程でした。そんなにして作った大作でしたが家族は勿論、誰も関心を持ちません。写真を送って鑑定を依頼した東京の模型店がわざわざ電話をしてきて激賞してくれましたが、何か虚しさだけが残りました。

 

それを見ていた愚妻の一言が “帆船なら飾っても綺麗だし褒めてもらえるよ、作ってみたら”。この一言で決まって、それ以来、帆船模型を作っていると云う次第です。定年を迎えるまでの15年間にピンタ、プレジデント、ハーフムーン、トルネーズ、ヨットマリー、グレーテル、ハンター、ブラックプリンスと8隻作りました。この間、伊東屋の瀬川さんに勧められてザ・ロープに入会させて頂き、今日、会の末席を汚している次第です。

 

ザ・ロープに入会させていただくまでは、大阪難波高島屋の帆船売場の岩橋さんにも色々とご指導いただきました。岩橋さんは女性モデラーとして著名な方で故奥村会長も良く知っておられました。また当時は梅田の地下街の玩具店の帆船模型コーナーでザ・ロープオーサカの会誌”SAILING SHIP MODELLERS“を有料で売っていたので大阪に行くと必ず購入していました。有料のこの会報は大変参考になりました。1991年版には故白井さんや故竹内さんも寄稿しておられました。

 

この会報を読んだのと伊東屋の展示会で土屋さんや久保田さんの素晴らしい作品を見たのが、定年後に構造模型を作り始めるきっかけとなりました。それから東さんと故竹内さん共著の『帆船模型』が初心者の私の座右の書となりました。また入会前には、瀬川さんの斡旋で富山県黒部市とオランダスネーク市の日蘭修好400年記念式典で中学生に帆船模型制作の指導をしたり、新潟の地元紙に故奥村会長と一緒に紹介されたりしました。(つづく)

 

 

 

ザ・ロープニュース第108号(2020.7.1発行)より再掲したものです。 

 


模型は人生の道標(後編)

 

 

彦沢正明 

 

 

 

ザ・ロープに入会して先ず感じたのは、会員と自分のような新参者との技量と知識のあまりの違いでした。特にショックだったのが愚妻を初めて展示会に連れて行った時のことです。展示会を見終わった後で愚妻が“他の人とあんたの作品の出来映えが違い過ぎる、他の人の作品は木の端が綺麗に切ってあって見映えがするが、あんたのは不器用で上手に切れないのをヤスリで磨いて整形して、上手に切ったように取り繕っている。ごまかし取り繕って生きてきた、あんたの性根が作品によく表れている”と云い放ったのです。

 

まるでシェイクスピア戯曲のマクベスの中で妻に“貴方はイカサマは厭だと云いながらトバクには勝ちたい性格だ(上品に表面を取り繕っても甘い汁を吸いたい下品な下心は見え見えだ)”と罵られて衝撃を受けるマクベスの心境でした。すっかり落ち込みましたが、一方で出展するからには何とか注目を集めたい評価してもらいたいと云う気持ちもありました。

 

その時、エジプト古代船の制作で著名な故津久井氏が “自分は故白井さんと技量が違うので彼と同じ物を作っていては勝てない、それで全く分野の違うエジプトの古代船を作って自分の特色を出すことにしたのだ”と語っておられたのを思い出しました。

必死に考えて出した結論は、“技量を追い求めず、アイデアで勝負”と云うものでした。そのアイデアとは

1. 船体を左右非対称に作る

2. フィギュアを配置する

3. 苦手な帆(セイル)の制作を諦める

 

しかし、帆船の最大の特徴“展帆”時のリギングの複雑さを必ず表現すると云うものです。船体を左右非対称にするのは航空雑誌やキットに添付される飛行機の図面が一つの機体図を中心線で左右に分けて片方は上面、もう一方は下面を描いているのにヒントを得たからです。フィギュアはそれまでの展示会でフィギュアを配置した作品を殆ど見たことがなかったからです。

 

1. 船体を左右非対称にし、片方は入出港時、もう一方は帆走時を表現すること。

2. フィギュアを配置して作品に躍動感を与え、船の大きさを実感できること。

3. リギングの複雑さを、アラベスク模様を見る感じで人の視覚に訴えること。

この3つを私の作品のコンセプトにしました。

 

気障な云い方をすれば、マーケティングで云うところのブルーオーシャン(未開拓市場進出戦略)です。このコンセプトに基づく最初の作品が第30回展に出展したマモリ社のハンターです。気合いを入れてアイデアをてんこ盛りにしました。続いて第35回展示会のブラックプリンスは帆の外形を透明の釣糸で表現し、その釣糸にバントライン、クリューライン、ボーライン等々を取り付けてリギングの複雑さを表現しました。

 

定年退職後は米国の構造模型キットをインターネットで見付けたのがきっかけで構造模型を作るようになりました。最初のキットをLSS (Lauck Street Shipyard) 社主でプロモデラーのボブ・ハント氏から購入し、第38回展に出展しました。

 

私の場合は小刀とヤスリだけで作っておりますので、欧米のモデラーに比べると時間が掛かっています。LSSのSNSで彼らの投稿を見ますと、広い地下室やガレージに集塵機まで備えて電動工具で効率よく作っています。私が500時間要したものを彼らは100時間から180時間で作ってしまいます。旧日本軍がガダルカナルでツルハシとモッコで多大な時間を掛けて飛行場を作る一方、米軍がブルドーザーを始めとする重機であっと云う間に飛行場を作ってしまったようなものです。亡父がガダルカナルで米軍に破れた様に、バカ息子の私も米国のモデラーに圧倒されてしまいました。私の作品を見たボブが所要時間を聞いてきましたので正直に500時間と答えましたが、多分、呆れた筈です。悔しかったですね。Fair American に続いて Oneida を制作し、これを第42回展に出展しました。

 

ここでお気づきのように、私の作品の出展間隔が長くなっています。それは定年退職してからは帆船模型制作の取り組方が変化したからです。制作主体から、事前準備として関連資料の調査蒐集に力を入れるようになりました。資料の殆どが英語で書かれているためその翻訳に時間を取られるようになり、制作開始までに時間を取られるようになったからです。

 

また資料集めのため LSS の SNS に参加したのがきっかけで社主のボブを始め、米国、英国、カナダ等の欧米のモデラーとの交流が進み(短い文章のやり取り程度ですが)、これが楽しみの一つとなりました。ボブとは10 年の付合いになります。彼は私と同じ歳ですが、志願兵としてベトナムに従軍しています。彼のキットを購入する時一緒に著作を送って貰って読んでから彼を尊敬するようになりました。

 

“One Four Man Up”と云うタイトルで、今は“One Four Man Up, 2nd Edition”です。ペーパーバックスで、アマゾンで16ドル程度で入手できます。彼が初めてパトロールに出た村の入口で惨殺されて木に吊るされた2人の米兵の死体を見るところから彼の体験記が始まります。アーノルド・シュワルツネッガーのプレデターの世界です。私の亡父も志願兵でした、しかも亡父から聞いた話と全く同じ状況が続くのには驚きました。

 

他に SNS をしていて面白かったのはデンマーク人の2世で、これまた1947年生まれでボブや私と同じ歳の人物でしたが、彼が田中前会長の監修したウッディジョーの菱垣廻船の制作ログを SNS に書き始めた時のことです。とても嬉しそうにして制作を始めたのですが、途中で行き詰ってしまいました。見かねて資料の提供や助言を始めて、最後には船尾に掲げる幟(のぼり)を布に印刷して送ってやるまでになり、結局3ケ月サポートしました。驚いたことに SNS に参加しているメンバーがボブも含めて電動工具やコンピュータは素晴らしいのに、全員のプリンターがドット式だったことです。これでは布に印刷できません。また菱垣廻船の“菱垣”を始め、和船の用語を解説したのがSNS のメンバーに好評で、少しは国際交流に貢献できたのかな、と私自身もうれしくなりました。

 

そんなこんなでボブから買った3隻目の構造模型キットの制作がマニュアルの翻訳を終わった段階から進んでおりません。そんなある日のこと、愚妻から“あんまり出展をご無沙汰していると今に除名されるよ”と云われたとき、見計らったかのように田中前会長から第45回展へ出展のお誘いの電話があったのです。余りのタイミングの良さに吃驚しました。満足な作品が無い中で取りあえず、小品の出展を予定していましたが、今回のコロナ禍で中止となりました。誠に残念ですと云ったところで、私の拙い作文もお開きの頃となりました。

  

それでは皆さん、この“戦後最悪の”災害に負けず、頑張って模型制作に励みませんか?

 

 

ザ・ロープニュース第108号(2020.7.1発行)より再掲したものです。

 

 

 


父と拳銃

 

 

彦沢正明 

 

関口様

 

メール拝見しました、確かに帆船と違いますが、私のような戦後の生まれには貴重なお話しを有難うございました。関口さんの貴重なお話しに、かってに便乗して恐縮ですが、終戦と云うことでお話しさせて下さい。

 

私は昭和22年の生まれです。従って戦争体験はありませんが、子供の時の記憶に、父が押し入れの中で刀を磨いていたのがぼんやりと記憶に残っています。大きくなってから理由を尋ねたら、米軍が乱暴した時に備えて武器を所持して復員したのだそうです。

 

それで、何時でも戦えるように刀の手入れをしているのだそうです。

拳銃も2丁。

 ルガーP06

 南部14年式

予備マガジン 10ケ

予備撃針     10ケ

銃弾         80発

父が死んだ後、銃は警察に届け、刀は怖いので親戚に引き取ってもらいました。

 

私の父は志願兵で、支那事変、ジャワ島攻略作戦、ガダルカナルと転戦しました。足には貫通銃創の跡と爆弾の破片が入ったままでした。”不死身の勇将は彦沢君”と云う陸軍大将のサイン入りの写真がありましたので、職業軍人ではありませんが、激しく戦ったようです。

 

就職して1年後に業務命令で志願させられたのだそうです。理由は20歳で招集されると2年~3年の兵役ですが、志願すると1年です済むからだったそうです。志願兵は費用を自費で賄うのを、会社が費用を払って志願されられました。

 

昔は招集されている間は会社の給料は出なかったそうですが、父の会社は給料が普通に出ていたので、軍隊の給料は全部、遊びに使っていたら、憲兵隊の尾行が付いて、後で取り調べを受けたそうです。父の兵籍簿を見ましたら、2等兵で入隊し、きっかり1年で軍曹で除隊し少尉で招集されています。

 

ちなみに”兵籍簿”は県の厚生課に本人と親族であることの証明に戸籍謄本を添えて申し込むと最初の入隊から復員完了まで”実に詳細な記録”が分かります。費用は数百円(コピー代)のみです。

 

父の拳銃は最初はドイツの大型拳銃マオザーで、出征の時、職場の同僚がお金を出し合って買ってくれたのだそうです。これはガダルカナル撤退の後、小銃と同等なので将校は持てないと憲兵隊に没収されたそうです。

 

以前に大学でドイツ人の留学生に”自分の父はドイツの拳銃を持って戦ったのだ”と云ったら、即座に”それはルガーか”と聞きますので、”そうだ”と答えたら喜んでいました。”もう一丁はマオザーだ”と云ったら、”ビッグガンだ”と云っていました。

 

拳銃の件は、随分昔に役員も同席の中で商社の方を相手に会議があった時、名詞交換をするなり、”あんた彦沢さんの息子か、終戦の時、あんたのお父さんに拳銃を2丁も隠しておくように云われて困ったよ”、と大声で云われて参ったことがありました。役員もいる席で親がヤクザと疑われないかと冷や汗ものでした。名前は平凡な方が良いです。

 

何か、関口さんのお話しに便乗して駄弁を弄してしまいました。お許し下さい。唯、兵籍簿に興味の有る方は是非、申請してみて下さい。自分の親族が命を懸けて生きた証は貴重な財産だと思います。

 

Aug 15, 2020, 2:36 PM










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