エッセイ集

奥様の帆船模型

奥様の帆船模型 1


帆船活劇映画のすすめ 2

 

フナクイムシの微笑み 3

 

船首像の魔女ナニーは残った 4

 

軍艦エルトゥールルにかかわるエピソード 5

 

 

 


 奥様の帆船模型

 

安藤雅浩 

 

今年一月の帆船展当番日に、伊東屋の展示会は毎年楽しみながら見ていると言われる中年のご夫人から、製作途中のままになっている帆船模型を仕上げて貰えないかと相談を受けた。木製帆船模型は仕上げるよりも途中で投げ出すほうが多い趣味だげに、何かアドバイスできることでもあればと思い話を伺った。


製作のきっかけは帆船模型展を永年、夫婦で見てきたことで、その内に、夫がやる気を出して作り始めたものの、船体がほぼ出来上がった二年前に病気で他界し、今でもそのままにしているが、天国の夫の気持ちを思うと仕上げて飾りたいとの由。


製作途中の船はイタリアのキットで二本マストのプリッグだが、自分にはできないので、期限はいつでもいいから仕上げて欲しいと頼まれた。帆船教室やキットからの製作なら教室の先生や伊東屋さんに引き受け願うことも可能だが、製作途中から別人の手で仕上げるには故人の作風を尊重しなければならず、失礼ながら出来具合を見てから引き受けるが決めようと考え「船を見てから」と申し上げた。


展示会最終日の日曜日、その夫人は手作りのタンポール箱に上手に収めた船と艤装パーツを小さく区切られた透明ケースに入れて持参し、再度仕上げを依頼された。やや小型の船をダンボール箱から出してみると、船体の板張りはていねいで素材のカラーを活かしており、展示会を永年見て備わったものが作風に現れている。これなら仕上げてもいいかと思い、引き受けて始めてみると、意外に手直しが生じたが、できるだけ故人の作風を真似て仕上げた。


出来あがって、引き取りに拙宅まで来てもらった時は大変喜ばれ、後日のお盆には旬のものを項戴した。なんだか供宴をした様な気がした。ある会員にこの話をしたら「いい話を聞いた。帰って家内によ-く話しておこう」

 
話は変わって古くなるが、ある全国紙のコラムに奥様の帆船模型についての随想投稿が載っていたので紹介する。なにぶん昔のことなのでよく覚えていないが、概ね次のような内容で、船作りは熱中するだけでなく家族団らんにも気配りも忘れずにといったものと記憶している。


私の夫は帆船模型作りが趣味で、作品を見た誰からも「良い趣味ですね」と言われ、私も当初はそう考えた。確かに器用で、土日には何十時間もかけて木を削り、船体、部品を正確に組み立てていく。深夜テレビやスポーツ新聞に夢中になる人とはひと味違っていて、将来はすてきな家庭になるだろうと思った。


しかし、長く見ていると少し心配になってきた.展示会の何ヶ月も前から準備にかかり、二週間前になるとほとんど眠らずに仕上げていく。まるで家内工業で、歯の浮くようなノコギリの音、飛散する削りくずと掃除機の音、外で塗装しても郭屋の中まで匂うシンナー。1㍉、2㍉の精度に注力して部品を組み立てている夫は自分だけの世界に没頭している。夫は夢中になれて楽しいだろう。私とは口もきかず、子供の相手は私任せ。夫の才能は認めるし、定年になってもすることがあってショックは少ないだろう。


しかし、好きな読書や音楽鑑賞もできない私はどうなる。今でも狭い家が帆船だらけになりはしないかと心配になってきた。そして出来上がる船を見て目を輝かせる息子が二代目になりそうで余訂に気にかかる。私は幸せな家庭に感謝しているが、どうもすっきりとしない。夫は私の気持ちを理解しているのだろうか。

 

ザ・ロープニュースNo.21 ( 1998.8.31)   

 

 



帆船活劇映画のすすめ

 

安藤雅浩 

 

帆船模型作りの途中にワイングラスを傾けて一服するのも気分転換になるが、ついでに血わき肉躍る帆船括劇映画をビデオで見るのもいいものである。帆船の出航から、ハリケーンに遭遇、砲撃戦、乱闘と続き最後はお決まりのヒロインを巡って主人公と仇との決闘になるワンパターンであるが、臨場感溢れる映画は見終わって気分爽快と共に模型作りも「さあやるぞ」と元気づけられること請け合いである。

 

1926年、ハリウッドは無声でこの程の映画を作って以来、トーキー後は次から次へと作り多くのスターを世に出した。ダグラス・フェア・バンクスJr、エロール・プリン、タイロン・パワー、バート・ランカスター等が狭いデッキを暴れまわる画面にしびれるのも懐かしい思い出である。

 

現在、ビデオおよびレーザーディスクで入手出来る映画の中で、9月中旬に発売された「戦艦バワンティ号の叛乱」と「カットスロートアイランド(首切り島)」は数有る帆船活劇映画を代表するもので、話の面白さ、見どころの多さなどから買って後悔することさらさらなしの映画である。前者は61年前の昭和10年制作の古い映画であるが、今でも鑑貧に耐える大作であり、後者は昨年作られた空前のアクション大作で、作品の内容は異なるが面白さの点では甲乙つけがたい。

 

戦艦パウンティ号の叛乱(MUTINY ON THE BOUNTY)


1935年MGMが制作した超大作で、第8回アカデミー作品賞を受賞、日本公開は第二次大戦前の昭和13年(1938年)でタイトルは「南海征服」であった。(バウンティの名はなじみがなかったため) 戦後、再公開時のタイトルは「戦艦バウシティ号の叛乱」であった。お話はパンの木を積むためタヒチに向い、帰路に非情を艦長の振る舞いに叛乱が起きるもので、イギリス海軍の史実に基づいている。


非借を艦長プライはイギリスから招いた名優チャールズ・ロートンが演じているが、共演のクラーク・ゲイプル、フランチョット・トーンを鳴っており、叛乱後に小舟に置さ去りにされ、ハリケーンのなかを苦闘しながらポーツマス港にたどり着き、叛乱者を軍法会議にかけるめ‘の追跡など執念深い役を名演技でみせる。

 

叛乱首謀のクリスチャンは若きクラーク・ゲイプルが紛し、出腕前に船員狩りを行うなど艦長の右腕が、艦長の無謀に段々と簸乱に傾いていく過程を好演している。クラーク・ゲイプルは4年後「風と共に去りぬ」のレット・バトラー役で大スターになるが-本作でも押しの強さなど、その片鱗を見せている。

 

クリスチャンの恋人になるタヒチ女性役はドロシー・ラムーアが紛し、エキゾチックをマスクから後にビング・クロスピー、ボブ・ホープの珍道中物のヒロイン役に納まった。士官候補生役のブランチョット・トーンは生意気を味を出して好演であるが、後にハリウッドスキャンダルで映画界を去った。


フイルムはモノクロであるが、保存が良いのか画面も荒れておらず、ストーリーの運びも早く、飽きさせない。その他、ポーツマス港に居並ぶ帆船、出航時の錨上げ、帆の展開、操船および実物大帆船の動きなど見どころも多い。ビデオはVHS135分で字幕スーパー、価格は6,800円。

 

なお、本作は2度再映画化された。1度目は1962年制作の「戦艦バウシティ」でカラー・シネマスコープ。プライ艦長をトレバー・ハワード、クリスチャン役をマーロン・ブランド、タヒチ女性役に現地の女性が紛した。トレバー・ハワードは特技の渋みを発揮し、マーロン・ブランドと共に熱演したが、テンポがのろく、前作の出来には及ばなかった。本作はビデオ化されていない。

 

2度目は1984年制作のイギリス映画「バウシティ愛と反乱の兢海」(BOUNTY)で、プライ艦長を名優アンソニー・ホプキンス(エレフアントマンの医者役で有名)、反乱首謀クリスチャンをメル・ギブソンが演じだが、第一作の二番煎じの感じ。

 


カットスロートアイランド(CUTTHROAT ISLAND)


1995年カロルコプロが1億ドルを接して作った空前の帆船アクション大作で、日本公開は1996年2月の最新作。 5分毎に見せ場を配した、面白い映画であるが、日本では大ヒットしなかった。(今や日本で受ける映画はポリスが出てカーチェイスしなり、ハイジャック物や恐竜が出るものになった)


お話は伝説の島(首切り島)に眠る財宝のありかを頭皮に墨入れで書いた古地図を頼りに海賊船の女船長が父の仇と戦いながら宝探しに向かい、仇も横取りしまうと追いかけて宝の奪い合いと砲撃戦、最後は女船長と仇がデッキ、マストトップ、ヤード上と船底で決闘を繰り広げるもので、男顔負けの決闘は見ているだけで手に力が入る。


特殊撮影と音響効果は最新作だけあって申し分がなく、港に並ぶ帆施、カノン砲の砲撃など見事をもの。特に凄まじいのはこの映画のために作った全長43mの大型帆船を爆破するシーンで、これでもかこれでもかとサービス満点の活劇映画である。女船長が主人公になるのもユニークな作品。


主演は1988年に「偶然の旅行者」でアカデミー助演女優賞をとったジーナ・ティビスが女海賊に扮し、冒険と戦いを繰り広げる。共演は「フルメタル・ジャケット」「メンフィス・ベル」で好演したマシュー・デモンだが、若さに溢れ、颯爽としていて、女船長を助けての大活躍である。監督は「ダイ・ハード2」「クリフハンガー」のレニ一・ハーリンで歯切れが良く、テンポも速い。

 

ザ・ロープニュースNo.14(1996.11.30) 

 



フナクイムシの微笑み

 

安藤雅浩 

 

木造船はその誕生から海中にいるフナクイムシ(船食虫)によって船底のあちこちに穴をあげられ.ポロポロになる宿命を負っており、昔からその対策に悩まされてきた。

 

フナクイムシは虫と名付けられているが、実際は貝の仲間で頭の部分に貝殻がちょこんとついており、胴体は白くて柔らかく貝殻の外に露出していて、一見すると鱈の子供である「しらす」のようなもの.大きさは長さ10cm程度、直径は数ミリの貝で、形は右図のとおり。

 

このフナクイムシが船底に穴をあげるメカニズムは頭に付いている小きな貝殻をヤスリのように動かして木材を食料にしなからどんどんと中に入り込んで行くもので、食われたところはキリで穴をあげたようになる。

 

アメリカのウッズホール毎洋学研究所でフナクイムシを調べたらタンパク質であったが、その原料である窒素化合物は木材に含まれていないため、食った木材はどうなったのか更に調査が行われた。

 

その結果、フナクイムシのデシャイズ線の中に細菌がびっしりと詰まっていて、この菌が木材の成分であるセルロース(繊維質)を分解して糖分に変えると共に窒素ガスを原料にして自力でタンパワ質を作っていたことが判った。この現象は大豆やエンドウ豆がタンパク質を作るのと同じ作用である。

 

フナクイムシ対策は初めの頃は船底の穴から吹き出す海水に対して、木柱を打ち込んで穴を埋める方法であったが、そのうち防止策が考えられた。17世紀までの防止策は石灰を混ぜた獣脂の塗料を船底に塗ることだった。この塗料は白色またはベージュ色をしており、帆船模型で船底を白系統に塗装するのはフナクイムシ対策を現している。この対策は効果が少なかったので、エンデバー号はフナクイムシに食われるのを覚悟の上で外板を二重張りにし、間に獣毛を挟んだ。

 

18世紀(1761年)になってイギリスは船底に薄い銅板を張ったところ防止効果が大きく、鉄の飴が作られるまでこの方法がとられた。張られた銅板の色は現存するイギリスのカティザークやビクトリーでは緑青色よりも艶消しの黒に近い色になっている。帆船模型も銅板を張ると一段と見栄えがするが、銅色のピカピカは控えたほうがいい。

 

ところで、フナクイムシの貝殻がこれほど強力ならばと穴明けのメカニズムを活用したのか、現代のトンネル工事に使われるシールド工法でフナクイムシの貝殻をまねた刃(バイト)を回転させて岩鰹を一時間に3~4mの速度で掘削していく。シールド工法は日本の土木技術が誇る工法で、貝殻ならぬ掘進機の直径は大小様々あり、大きいものではトンネルの直径くらいのものもある。

 

既に恵那山トンネル、九州、北海道の毎底トンネル、ドーバー毎峡のユーロトンネルなど広く利用されているが先程、自動車道としては最長の毎底トンネルである東京湾アクアラインが開通した。東京湾アクアラインの目玉は川崎と木更津間15kmの内、Ill崎からの海底トンネルで10km先の観光名所といわれる「海ほたる」で、ここから先の木更津までは橋になっている。

 

海底トンネルも列車専用なら防災設備も少なくてすむが、自動車道は火災などの災害時の人命救助に様々な対策が必要になる。トンネル部分は上下各2車線のほかに、道路下に緊急車両用道路が作られており、避難者は300m毎の非常口扉からすべり台でこの道路に避難して脱出する。その際の煙の侵入はトンネルの中間部に作った人口島「風の塔」からの風が避難道路の気圧を車道より高くして防止するシステムになっている。

 

また、シールド工法の技術は全部を海底トンネルにすることができたが、セメントと鉄の需要を配慮した政治決着で世界に稀なチャンボン道になった。この道路が出来て、所要時間はフェリーで一時間かかったものが車で15分になり、めでたしの感がする。

 

フナクイムシは鉄の船の出現で人間の知恵に負けだが、シールド工法は俺様のお蔭であり、人間はフェリーを捨てて海底に潜ったわいと微笑んでいるかもしれない。

 

ザ・ロープニュースNo.19(1998.2.28) 

 

フナクイムシ
フナクイムシ
直径2.7mのシールド掘進機
直径2.7mのシールド掘進機


船首像の魔女ナニーは残った

 

安藤雅浩  

 

修復工事と火災


グリニッジ標準時間5月21日(月)未明の4時45分頃、ロンドン・グリニッジの乾ドックに保存されていたカティーサークの船体から火災が発生しました。消防車8台と消防士40名で消火作業にあたりましたが、火は1時間43分も燃え続け午前6時28分に鎮火しました。人気のない未明の出火のためロンドン警視庁で原因を調査中です。

 

同船は建造から138年経過のために痛みが酷く、今まで公開中でもどこかの修復工事をエンドレスに行っていました。グリニッジ観光の際、同船を訪れて全体を観ることが出来た人は幸福な人と云われています。そこで、船の内外装を建造当時の状態まで復元することになり、昨年11月から一般公開を中止し2年間かけて大規模修理を行っていました。

 

出火当時は分解中であったためマスト、デッキ材、船首・船尾の飾り、船内の船首像などは取り外されて別の場所に保管していたため損失を免れました。損傷状況は焼跡の航空写真の如く船首・船尾は無傷、大部分の鉄製甲板ビームは形を留めています。損傷の大きい部分は主甲板(weather)、その下の中間甲板(tween)およびその下の船倉部分で、キールは無事でした。一番損傷しているのは中間甲板で出火場所と見られています。

 

全体としては例えば四切りの未熟なスイカ、メロンを食べたとき残った厚皮部分のような状態で、損傷率50%と予測されています。今後の修復で鍵となるのは残った鉄製のフレームと甲板ビームの強度がどの程度ダメージを受けているかで、分子レベルの組織検査で対策が左右されることになります。

 

不運なクリッパーカティーサーク19世紀初頭、中国とヨーロッパの貿易は東インド会社が独占し、紅茶はヨーロッパに1年余かけて運ばれていました。

 

1834年にこの独占がなくなると、ヨーロッパの船主達は中国貿易に参入して、イギリスの国民的な飲み物である紅茶をどのようにして新鮮なままロンドンに運ぶかに関心を持ちはじめました。特にアメリカの帆船がその年の一番茶1500トンをロンドンに届けたときは、たちまち高値で売れて利益は帆船建造費の3分の2に及ぶ膨大ななものでした。

 

この輸送革命はイギリスに衝撃を与え、紅茶貿易の快速船(ティークリッパー)が次々と建造されました。クリッパーとは疾走する(クリップ)の動詞から生まれた言葉です。既に蒸気機関エンジン搭載の鉄船の時代が始まっていましたが、帆船は燃料の石炭とエンジンスペースが不要であり、船足も早く、積荷が多いのが特徴で存在価値は充分にありました。

 

カティーサークはこのような環境の中で、後にティーレースを競うサーモピレーなどと共に同時代に建造されました。当時の船体は鉄板張りが主流になりりつつありましたが、鉄板は紅茶の味を損なうと考える迷信からカティーサークは木材外板にフナクイムシ対策の銅板張り、キールとフレームのみ鉄製でした。右の写真は火災前に木材外板を剥がして鉄製フレームの錆落し作業をしている状態で、白色塗装部分が鉄製のフレームでH型断面になっています。

 

カティーサークの船主ジョン・ウイリスはカティーサーク建造の20年前から数隻のティークリッパーを所持していましたが、ティーレースに勝利出来ないために世界最速で荒天でも高い安定性のあるティークリッパーをスコットアンドリットン社に発注し、1869年(明治2年)11月22日カティーサークが進水しました。

 

しかし皮肉なことに進水5日前の11月17日にフランスの外交官レセップスが工事を進めていたスエズ運河が開通し、帆船の時代は終焉に向かうことになりました。スエズ運河は開通の300年も前からベニス商人やナポレオンが構想を抱いていたが、実現しなかったもので、その効果はソロバンの時代にスーパーコンピューターが現れたような状況でした。なにしろ、スエズ運河を通ると航行距離は南アフリカの喜望峰を周るのと較べ半分以下になりますから、勝負は付いたようなものです。

 

カティーサークは進水時から不運に見舞われるます。それならばと帆船もスエズ運河航行を計画しても延長160kmの殆どは無風地帯で航行できません。やむなく喜望峰を周りの紅茶運搬を続けますが、次第に蒸気船に取って代わられ紅茶運搬は7年間で8回の航海で終焉しました。約28名の乗組員は荒海の中、107日から122日で中国からロンドンを航海したのですから偉業で、後に帆船時代の最後を飾ったクリッパーとして名を残すことになりました。

 


カティーサークの命名


カティーサークとはスコットランド語でカットして短い(cutty)ヴィクトリア時代の下着シミーズ(サークsark)のことで、船名は古い伝説であるロバート・バーンズ作の詩タムオーシャンターに登場する魔女ナニーに由来します。当時の船名としては度肝を抜くような名前でした。

 

お話は酒好きのタムが夕方、靴修理屋の友達と深酒してご機嫌状態で灰色の雌馬マギーに乗って帰宅していました。その夜は雷と稲妻が光る嵐のような天候でタムが教会の庭を通りかかったとき、魔法使いと魔女の一群が赤々とした炎の中でバグパイプや角笛を吹きながら踊っているのを見てびっくり仰天しました。

 

タムは馬を止めて、よく見ると老魔女やお話にもならない醜い魔女の中に若くて美しい魔女ナニーを見つけました。ナニーは短い下着のシミーズのほかは何も身に着けていませんでした。日本なら18才未満入場禁止のショーです。魔女ナニーはタムに覗き見られたのに気づいて追いかけてきたため、タムは怖くなって酔いも覚め小川に向かって馬で逃げだします。

 

タムは魔女が水が流れる川を渡ることができないことを知っていました。命がけで馬を駆って逃げるタム、それを逃がすものかと憤怒の形相で追っかける魔女ナニー。タムは魔女の早足に段々と追いつかれ橋のたもとまでたどり着き、魔女ナニーの左手が伸びてきた瞬間、タムの体は橋を渡って逃げ切り魔女ナニーの左手は雌馬マギーの尻尾を掴みごっそりと引き抜きました。馬の痛さは想像もできないほどでした。

 

カティーサークの船首像は左手で馬の尻尾を握りしめた魔女ナニーです。その顔は美しい魔女の優しい顔とはほど遠く、怒りまくった表情をしています。船首像は寄木を彫刻して作りますが、屋外にさらしておくと痛みが早いので、カティーサークの船首にはダミーの魔女ナニーを取付け、オリジナルは貨物昇降用ハッチ下の吹き抜けに写真のように展示していました。

 

紅茶運び撤退後とイギリスへの帰還


1878年にカティーサークは紅茶輸送を撤退してからアメリカバッファローの角やオーストラリヤの羊毛をロンドンに輸送するなど様々なものを運びましたが、紅茶輸送に較べて利益率があまりにも悪く、船齢を重ねると補修費も嵩むため、1895年ついに船主はポルトガルに売却しました。

 

以後、27年間ポルトガルと南米、東アフリカ植民地との輸送業務に使われました。1922年、イギリス人船長ドウマンに買い上げられ、補修して航海学校に寄贈され練習船として使われ、1954年、カティーサーク協会の所有となりエリザベス女王の夫君、エジンバラ公の尽力でグリニッジのドライドックに保存されました。

 

以来、グリニッジ観光名所の一つとなり毎年何百万人か訪れていました。ロンドンの遺産としての復元船体の火災は世界に唯一現存するティークリッパーの損傷で、とても悲しいことですが、貴重なマスト・ヤード・飾り・備品および船首像が被災を免れたことから、復旧に向けた動きがスタートしました。

 

被災翌日の5月22日にはエジンバラ公が被災現地を訪れ、復元への寄付集めも始まりました。8月7日現在の寄付額は53万ポンド(約1億円)を超えており、まだ不充分ですがカティーサークはロンドンの遺産との認識から、復元は軌道に乗ると見られています。イギリスの税制は寄付金の28%が所得控除される仕組みで、寄付が集まりやすいお国柄になっています。

 

 

ザ・ロープニュースNo.57(2007.8.31) 

 

 

命がけで馬を駆って逃げるタム、それを逃がすものかと憤怒の形相で追っかける魔女ナニー
命がけで馬を駆って逃げるタム、それを逃がすものかと憤怒の形相で追っかける魔女ナニー
貨物昇降用ハッチ下の吹き抜けに展示されたオリジナルの船首像
貨物昇降用ハッチ下の吹き抜けに展示されたオリジナルの船首像


軍艦エルトゥールルにかかわるエピソード

 

安藤雅浩 

 

 

エルトゥールルが遭難した串本沖の大島は紀伊半島の最南端に位置し、日本朝日百選の1つである名所「橋杭岩」の先にある。現在の大島は橋と道路によりバス、車で行くことが出来る。エルトゥールルの残骸の多くは大島沖に眠っており、海底からの遺品引き揚げは今も続いている。乗組員の遺体は大島樫野崎に埋葬され、遭難から47年後の昭和12年、この地に地元有志による「殉難将士慰霊碑」が建立された。さらに、昭和49年(1974年)に「トルコ記念館」が建設され乗組員の遺品とトルコ政府から寄贈された品々を展示している。エルトゥールルの模型はトルコ政府からの寄贈品の1つ。

 

少し時代が下って昭和55年にサダム・フセインのイラク軍がイランに侵攻してイラン・イラク戦争が勃発した。原因は石油に絡む国境紛争、宗教紛争およびフセインの中東派遣への野望などで、戦争は国連安保理仲裁まで8年間続き、両国の犠牲者は100万人に達し昭和63年に終戦した。フセインは終戦から2年後にはクエートに侵攻し湾岸戦争を始めている。懲りることを知らない野望の大きな独裁者である。

 

そのイラン・イラク戦争最盛期の昭和60年(1985年)にフセインは突如、全世界に向けて「今から48時間以降はイラン上空を飛ぶ全ての飛行機を無差別に撃墜する」と宣言した。この事態に各国は急遽イラン滞在の自国民救出に航空機を次々とテヘランに派遣し時限内の救出を行った。日本政府も日本航空(JAL)に邦人救出のフライトを要請した。JALはこの政府要請に対して「飛行の安全が保証されない限り飛ばない」と断った。日本以外の各国はリスクを抱えながらも自国民の救出を懸命に行っている中で、JALの回答は世界の常識から外れていた。社内では航空自衛隊出身の機長から志願者が出たが、JALは組合の反対を優先して断った。この空気が読めないJAL経営者の無策ぶりは情けない。フラッグ・キャリヤーとして政府から優遇されていながら、いざの時でも身に染みついた親方日の丸意識を通す姿勢は後日のJAL去就を暗示していた。

 

断られた政府はJALによる国民救出を諦め外務省を通して欧米の航空会社に邦人の搭乗を要請したが、各国は自国民救出を優先するため余裕がないと断った。イラン滞在の邦人はテヘラン空港に集まり、他国民が救出されるのを横目に215名が取り残されていた。この時、政府はJAL優遇を見直し、志願したJAR機長により政府専用ジャンボ機を飛ばす決断をすべきであるが、その決断すら出来ず他力本願で解決しようとする「リスクを取れない」政府はもっと情けない。この外国依存体質は戦後長年続いたもので独立国家としての存在が疑われる。因みに時の総理は中曽根 康弘、官房長官は後にリクルートで有罪になる藤波 孝生。 

 

話が逸れたので元に戻って、外務省の努力は続き、最後はイラン滞在の野村豊大使がトルコ大使館のビルレル大使に窮状を訴えた。トルコ大使は「わかりました。本国に日本人救援機の派遣を求めます。トルコ人なら誰もがエルトゥールル遭難の時に受けた恩義を知っています。ご恩返しをさせて頂きましょう」と答え、急遽トルコ航空機がテヘランに派遣され、邦人全員215名はタイムリミット1時間15分前にテヘラン空港を飛び立った。一方、イランに残っていたトルコ人約500名は日本人優先のため飛行機に乗れず、車分散により陸路を経て帰国した。救援されて機内で喜びに沸く邦人達に、機長アナウンスの第一声は「日本人のみなさん、トルコにようこそ!」。

 

後日談はさらに続いて、平成20年、来日のトルコ大統領アブドゥラー・ギュルは同国大統領として初めて串本の慰霊碑を訪れ、追悼式典に出席し献花を行った。現在、串本町は町興しの一環として映画エルトゥールルの製作を進めている。内容は漁師の救助活動とテヘラン空港に取り残された邦人をトルコ航空機が救出するもの。テーマは両国の友好と交流。町は今年度の一般会計に脚本作成費として200万円を計上した。その外、寄付金も充てる予定。映画はCGを使うにしても、基本は模型からの画像作りが必要になる。その時は国内唯一の修復模型である本船の出番になるかな。NHKドラマ「龍馬伝」に出てくるハウステンボスの咸臨丸では機帆船のアップシーンは撮れても、船体の形状が全く異なり全体のシーンは撮れない。

 

 

ザ・ロープニュースNo.69(2010.8.31)