セーレムのミルクティー [前編]

ーアメリカ東海岸の海事博物館めぐりと食べ歩き紀行

そもそも、アメリカの東毎岸の海事博物館を見て回ろうと提案したのは、横浜帆船模型同好会の仲間の中山宣長さんである.マサチューセッツ州に勤務経験のある 中山さんがレンタカーで回ろうというのに渡辺晋さん、鈴木雄助さん、それと横浜の仲間の平戸重男さんが乗った.

 

車だから5人でいっぱい。12日間で、ぜ-んぶ入れて30万円まで掛からなかった安旅行だが、中山さんの名プランで、ワシントンD.C.を皮切りに、南はニューポート・ニューズから北はこのセーレムまで、ほとんどの海事博物館を見て回った。

 

おまけにニューヨークのプライムリブ、ステイーマーという変な員とかボストンの由緒あるユニオン・オイスタ 一・ハウスのカウンターでの牡蝿やチェリーストーンという天下の珍味を堪能するというおまけ、いやこれが半分は本命という食べ歩き旅行でもあったのだ。

    セーレムのミルクティー 1  
    ワシントンの大船 2  
    シエンティアって何だ 3  
    キャプテン・ジョージ 4  
    マリナーズ・ミューゼアム 5  
   

幻の軍艦三笠

6  
    アップル・サイダー 7  
    感激のチェリーストーン 8  
    ボストンとジュネーブを結ぶ弦 9  
         

 



セーレムのミルクティー

アメリカの東海岸、ボストンから北東へ車で30分(まともに行けは)のところにセーレムという小さな町がある。その昔、捕鯨船の基地として栄えたところだが、それよりもアメリカで唯一魔女裁判が行われたことで、つとに名を馳せている。何せ部屋に鍵をかけなくとも大丈夫という、アメリカとしては例外的に治安のいいところだし、少し旅にも慣れたがら今日は自由行動だと、われら5人は思い思いに行動したあげく、昼食にまた寄り集まった。10月半ばのニューイングランドとはいっても、天気はいいし思いの外暖かい。お目当てのピーボディ・工セックス・ミューゼアムの他にもいろいろと歩き回って、少しばかり汗もかいたし簡単な食事でゆっくりしようやと町中にある安食堂にぞろぞろと入った。

 

さほど広くもない半地下式の食堂で、奥の厨房の前に半円形のカウンターがあり、粗末なテーブルと椅子が何組かおいてある。旅行メモを見ると、そのときぼくは、ハムとチーズのサンドイッチと紅茶を注文したことになっている。

 

その紅茶が問題で、ぼくは大きな声で「・・それとミルクティ」といったのだ.とだんに、注文を取りに来ていたクリクリした目の、ぽっちゃりした若いおねぇちゃんが、ケラケラ笑ってそれおかしい、という。こっちは少しもおかしくないからきょとんとしていると、まだ笑っている。少しむっとして「日本じゃミルクデイというんだぜ」と念を押すと、かのおねぇちゃんはOK、OKと頷いて奥の厨房へ、「ミルクティ!!」と食堂中に響きわたるような大きな声で注文した.さすがに今度はぼくたちも一緒に大笑いになった。

 

それから彼女とすっかり仲良くなって、本当はなんていうんだいと聞いたら、「ティー・ウィズ・ミルク」というんだそうな。一方で彼女はストローを2 本持ち出して、著の使い方を教えろといってきた。下の著は固定して、上で挟むんだよ、ぼらね、とやって見せだがそんなにうまくいがないと、寄り集まってき た仲間ときゃっきゃと笑う。箸が転げてもおかしい年頃とあって、まことに楽しい昼食だった。たった4ドルでこんな経験ができるのだから旅は止められない。

 

そもそも、アメリカの東毎岸の海事博物館を見て回ろうと提案したのは、横浜帆船模型同好会の仲間の中山宣長さんである.マサチューセッツ州に勤務経験のある 中山さんがレンタカーで回ろうというのに渡辺晋さん、鈴木雄助さん、それと横浜の仲間の平戸重男さんが乗った.車だから5人でいっぱい。12日間で、ぜ-んぶ入れて30万円まで掛からなかった安旅行だが、中山さんの名プランで、ワシントンD.C.を皮切りに、南はニューポート・ニューズから北はこのセーレムまで、ほとんどの海事博物館を見て回った。おまけにニューヨークのプライムリブ、ステイーマーという変な員とかボストンの由緒あるユニオン・オイスタ 一・ハウスのカウンターでの牡蝿やチェリーストーンという天下の珍味を堪能するというおまけ、いやこれが半分は本命という食べ歩き旅行でもあったのだ。

 

これから何回がこの旅をご紹介しよう。

 

 

(ザ・ロープニュースNo.15)


          おおぶね

ワシントンの大船

1995年10月6日の夕方6時半、ぼくたち5人はワシントンD.C.のダレス空港に降り立った。今回ばかりはタクシーやバスという陳腐な乗り物に用はない。AVISと真っ赤に書かれたレンタカー会社差し回しの無料バスに乗ってアメリカでレンタカーを借りるのだ。もとより借りる交渉は(ついでにいえば運転も)中山さん任せで、4人ともバカみたいにぼーっと待っているだけだが、これが結構時間が掛かった。それでも真っ赤なマーキュリーのトランクにぎゅうぎゅう荷物を積み込み、横幅があるというだけの理由で助手席にぼくが乗ってさあ出発、となったら胸が踊った。

 

去年会議でここに来た経験からすると、タクシーでも市街地に入るには40分ほどかかる。とうに陽も落ちて真っ暗だし、何かと手間取って借り手の最後になったものだがら、あたりに1台の車も見えない。まあゆっくり行くか、何年かの経験もあるし英語はできるし、中山さんの運転に何の心配もないと大船に乗った気持ちでいたのだ。

 

その大船が、レンタカー屋のゲートで何やら聞いている。O Kとなって、出口を左折して突き当たりを右折したのだが、中央分離帯の左、つまりアメリカでの反対車線に入りかけておっとっと、危なく正規の車線に入った。ところが行けども行けどもワシントンの街中どころか、どたい空港の敷地から外へ出られない。それでも中山さんはさすが大船だげあって毫も動じない。どうもいけませんな、ともう一度ゲートへ戻って、ぼくには聞き取れない英語で出口を確認する。今度こそは何号線だが見覚えのある道路に出た。やれやれと思ってから、かなり走っても依然として暗い道が続く。しばらくすると、「福田さん、そこに地図があるんで、ちょっと見てくれませんか」だと。

 

ぼくはナビゲーターをやるつもりはなかったのだが、行きがかり上やむを得ず地図を拡げる。もうポトマック川を渡って街中に入る筈な のだが、どうやら川を見落としてしまったらしい。仕方ないここらで降りますかね、と中山さんと相談して大きい道路から降りてもらう。しかし、どう見てもぼ くの知っているワシントンではない。ウロウロしても何だからと、道端に車を止めてああだこうだと役にも立たない相談をしていると、車が1台通りかかった。 地獄に仏とこれを止めて道を聞いたら、ちょっと年輩の女性が降りてきて親切に教えてくれた。何のことはない、ぼくたちはポトマック川の手前で道路から降り てしまったのだ。

 

何といってもここはアメリカだ。胡散臭いのが5人もいるのに、しかも暗くなっている中を女性1人で車を降 りて数えてくれたのは奇跡に近い。心から有り難うをいって別れたのだが、暗い道路を今が今かと期待しながら走っていると道がなんと遠く惑ずることか。それにしても幸先よいではないがと一同ホッとする中で、ナビゲーターのぼくの面目はまるつぶれ、しかもその後何度もぼくの面目がつぶれた。

 

どうもナビの適性があまりないらしい。ワシントンの街中の道路は、パッテン十字の上に縦横十字がたくさん重なっているような変な構造になっている。アメリカ 人でもワシントンに車で行くなというよと中山さんがいうのだが、冗談じやない、その街へ旅の最初に車で行ったのだから、ホテルを探し当てるまでにまたまた 時間が掛かったのはいうまでもない。チェックインしたときはもう夜も10時を回っていた。やれやれ。

 

 

 

(ザ・ロープニュースNo.18)

 


シエンティアって何だ

再びアナポリス。

歴史は人間の物語一 人闇の衝動や夢の物藷だといったのはパーサ・サンフォード・ダツジ女史だが、ぼくたちにとっても人間の物語として歴史を読むのは楽しい。まして外国を旅するならばその歴史を知らなければと常々いわれながら、ついそのままになっていたものが、最近になってサム工ル・モリソンの「アメリカの歴史」を手に入れた。だが文庫本の各々500ページを超える5巻を読むのは大仕事で、まだ2巻目の半分ほどを読んだに過ぎないけれども、このアナポリスが建国前後のアメリカにとって極めて重要な都市であったことが理解できる。そのころはワシントンDCなんぞ陰も形もなかったのた。

 

私掠船から発達したアメリカ海軍がやがて世界に君臨するまでの歴史がこのアナポリス海軍兵学校に凝縮されているような気がする。それは勿論この博物館の展示に如実に現れているのだけれども、もう一つ、昼食にサムロールさん達と近くの街へ出たときにも、僅かに感ずることができた。時間がなかったがら、アナポリスの街を見学することはかなわなかったが兵学校の営門を出て少し歩いた街がいかにも古い。アンティークの店あり、食器店あり、洋装店ありなのは当然だが、その各々がいかにも風雪を惑じられるおっとりとした、ヨーロッパのような雰囲気なのだ。

 

やがて入ったレストランも、どこにでもありそうな古風な店ながら、木造の高い天井、くすんだ太い梁、ぎしぎしという木の椅子。サムロールさんのなじみの店らしく、愛想のいいおばちゃんに席を用意してほしいと頼んでいる。一行7人がテーブルを囲むと、ハドックさんがここの名物はね、とメニューを見ながら強制するわけではないがと目で知らせて、クラブケーキだという。中山さんの説明(通訳)ではどうやら蟹の卵焼きのようなものらしい。

 

チェサピーク湾は有名な漁場だから、蟹が採れるのかどうかは別として、海産物はきっとおいしいに違いない。ぼくは一も二もなくそれを頼んだ。土地の 人が旨いと言えばほぼ間違いない。果たして出てきたのはイングリシユマフィンを二まわり大きくしたような蟹の、まあ卵焼きというか、オムレツというか、何 せむやみとおいしい。おかげでそれ以外に一体何を注文したかさっぱり記憶にない。

 

歴史探訪を終えて博物館に戻ると、恭しく ぼくたちに大きな封筒が渡された。兵学校の案内やら書藷の案内、展示模型の説明等が入った大部の資料だが、ぼくたちが驚いたのはその中にカラー印刷の「名 誉訪問者証」が入っていたことだ。枠の中の上に海軍兵学校船舶模型協会(Naval Academy Ship Model Society)とあり、その下の楕円形の枠に薄墨のシップ型帆船があり、その真ん中に縦の楕円でNASMSの頭文字がデザインされている。その上に、色 を変えて名誉訪問者(Honared Guest)とあり、何とその下には大きなイタリックでミスター・マサヒコ・フクダと書いてあるではないか。両側には1995年10月と日付まで入ってい る。

 

ハドックさんはニコニコして、コンビューターで初めて打ち出してみたのだが、上手くいったという。これは一枚の紙では ない。船の模型を趣味とする日米の仲間の確たる親善の証ではなかううが。だからこれはぼくの宝物で、今も額に入れて机の横に掛けてある.そしてもう一つ、 兵学校のバッジを頂いた。金色の小さなものだが、上にU.S.とあり、左右にNAVAL ACADEMYとある。それはいいのだがその下にSCIENTIAとあるのが分からない。

 

帰国後、いろいろ調べだが分から ない.どうやらラテン語らしいと見当をつけて、ぼくの友達でラテン語を知っている人に聞いてみて初めて分かった。オックスフォードのラテン藷基礎辞典によ ると、シ工ンティアとは「知識、学、インテリジェンス、科学的手腕、専門、芸術理論」という意味があると。

 

ここでぼくは初めて納得がいった。アメリカの海軍兵学校で目標としているのは、戦を教えるはかりではなく、その基本として叩き込むのは、学問でありインテリジェンスである。だからネイヴアル「アカデミー」なのだろう.日本でもそうだったのだと、ぼくは信じたい。

  

 

 

(ザ・ロープニュースNo.21)


キャプテン・ジョージ

10月8日は日曜日だったが、スミソニアン博物館などを見た足で、ワシントンダレス空港へ行き、そのままジェットストリーム32という、名前はかりは勇ましいがターボプロップ20人乗りの双発プロペラ機でニューポートニューズへ飛んだ。アメリカの東海岸にはニューポートという町もあるが、あそこはボストンのすぐ南で、このニューボートニューズはチェサピーク湾の出口に近く、両方の町は直線距離にしても700km以上離れている。空港で借りたレンタカーで、例の如く2・3回失敗しながらやっとコムフオート・インに到着したのは午後の6時近かっだ。

 

「エー、私の調べたところではキャプテン・ジョージというシーフードのレストランがいいそうです。予約しておきましょう」という中山さんの提案で、一同喜び勇んで車に乗り込んだまではよかったのだが、どうしてもそこにたどり着けない。住所は分かっているし、標識もしっかりしている。何でたどり着けないのが誰にも分からない。ぼくはナビゲーターの役割上、必死になって地図を眺めるのだが、ある筈のところに道路がないのだ。ほんの車で10分ほどの筈なのにと、何せ乗っているのは黙って座っている連中ではないから、ああじゃこうじゃと姦しい。

 

7時を過ぎて、いよいよ見つからなければ近くで食事にしようよと、弱気な発言まで飛び出したが、前日の夕食を取ったイタリーレストランが、値段ばかり高くてちっとも美味しくなかったから、意地でも美味しいものが食べたい、取りあえずとって返してもう一度電話を入れようと、大船である中山さんの提案で、ホテルへ戻った。聞くと何のことはない、道路標識で百何号線だかと書いてあるのは、その先がそうだという意味たったのだ。暗いのと憤れないのとで、それを見落としていたというわけ。8時を過ぎてやっとたどり着いたレストランで、まあ、どうしたの心配していたのよ、と若い女性に迎えられてこんなにほっとしたことはない。

 

暗い道路に大型帆船を摸した赤いネオンだけが目印のこのキャプテン・ジョージは、期待に違わず美味しい店だった。

「まあ、白ワインですかな」

ぶぅぶぅいったのはどこへやら、もみ手せんばかりにメニューを眺めて渡辺さんも平戸さんもニコニコしている。生蠣は小振りだったが、海のにおいが立ってつるりと喉を通る。

「蠣も海老もうめえよなあー、どうもおれは魚が好きでよ」

と これは鈴木さん。好みだけれども、大型のシュリンプはさっとパターで妙めただけのものをレモンを絞って食べるのが最高だ。そして、旨いレストランの例に漏 れずここのパンも上等で、あっさりした料理と一緒にいつの間にがお腹が一杯になっていた。ここはアメリカだから、蠣と海老とサラダといっても量が違うの だ。

 

満腹して、少し冷えてきた夜空を仰いで、明日も来ようかなどといいながら帰ったものの、来た通り帰ったつもりが、またも道に迷ったのはキャプテン・ジョージが幻の店だったからではないだろうが。

 

 

 

(ザ・ロープニュースNo.21)


マリナーズ・ミューゼアム

本当のことをいうと、ここニューポートニューズへ来た目的はマリナーズ・ミューゼアムの見学だ。このミューゼアムが主催して5年に1回コンペティションが開かれ、ちょうどわれわれが行った1995年にコンペがあった。ザ・ロープの坪井さんの作品が推薦ということで展示されているので、それを見るのも楽しみのうちだ。

 

このコンペはノーティカル・リサーチ・ギルドが協賛していて、ワシントンへ行く飛行機の中で、中山さんからその審査規準だという英文の5ページにもわたる資料を手渡されていた。全部は読めないけれども、その資料によると著者はこのギルドのディレクターであるアランD.フラツァーさんで、いろいろなコンペの審査もしている。

 

延々とその審査の過程を述べているのだが、100点満点の内容を大きく分けると、「全般的な印象」が10点、制作者がどれほど正確に調査をしているかという「調査」に20点、「難易度」に20点、「スケールの正確度」に20点、それと「クラフトマンシップ」に最大の30点を与えている。

 

このクラフトマンシップというのは辞書には「技能」とか「腕前」とか載っているけれども、ぼくにはどうもそれだけではないように思える。いってみれば、作品に制作者の“心意気”といったものが感じられるかどうかも含まれているのではないだろうか。

 

それはともかく、フラツァーさんは「審査というのは容易な仕事ではない」といっているが、そうだろうと思う。また審査項目はコンピューターにのせられるようなものではないといい、だから人が審査するんだともいっている。こういう審査を経ることで作品とミューゼアムの権威も高まるのだろうし、アメリカ式のやり方が分かって面白くもある。

 

われわれが訪問したのは午後1時を回った頃だが、広大な林の中にある白亜の建物は物静かで、人もほとんどいない。館内すら深閑としていて、コンペの作品がどこにあるやら、受付の元お嬢さんすら、はてなという躰だった。もちろんコンペそのものはとうに終わっていて、入賞と推薦の作品が並んでいるばかりだから、華やかさというものはおよそないのだ。が、ずっと奥にある入賞作品を眺めると、さすがに見応えがある。

 

金賞は2本マストのヨットで、右舷側がプランキングがなく内部照明で中が見え、キャビンの戸棚まで開くようになっているのが分かる。「プッシュボタン」という奇妙な名の船だが、しみじみ眺めるといかにもこの船が可愛くってしょうがないという作者の気持ちが伝わってくる。

 

確か銀賞だったと思うが、女性の作者のボート、これがまたいい。オール1対の小さなボートだが、この船の持つ凛とした気品というものが審査員にアピールしたのではないだろうか。簡素な美しさを教えてくれる作品だ。

 

アメリカでは帆船も現代船も同じレベルで扱われるから、スマートな駆逐艦や商船も展示されている。しかし、現代船はどちらかというと艦橋構造のようにプラキャストがものを言う場面が多い。アメリカでは帆船も現代船も一つの歴史のラインに沿った流れとして違和感がないのだろう。その辺の感覚はわれわれとちょっと違うが、それはわが国にフルリッグドシップの長い歴史がないからに違いない。

 

坪井さんの作品は「推薦」で、小さなテーブルに一つだけ飾られていた。「あった、あった」と皆で取り囲み、満足してほかへ回る。本館から少し外に、大きなトタン屋根の建物があって、スモールクラフト・コレクションとある。ベニスのゴンドラからテムズ川のスチームボートまで、本物の小艇が雑然とおいてある。将来整理するんだろうが、とにかく集めておくというやり方も一つの方法だなあと思わせる。

 

やがて見学を終えて外へ出ると、松林の中の木製テーブルで年輩の女性が二人、弁当を使っている。どうも日本人らしいぜと遠巻きにしてみな躊躇しているうちに、渡辺さんつかつかと進んでなにやら話しかけている。にぎやかな話し声におそるおそる近づくと、結婚して戦後間もなしに移り住んだ人たちだそうで、持参のお稲荷さんや太巻き寿司を「そろそろおいしくなる頃でしょ、どうぞ召し上がって」とおっしゃる。思いもかけぬご馳走に預かったが、これをもたらした渡辺さんに、誰やらが密かに“ババゴロシ”とか訳の分からぬ賛辞を呈していたっけ。

 

1999.4.19.

 


幻の軍艦三笠

中学生の頃、ぼくは海軍士官になって潜水艦に乗りたかった。戦時特例で中学3年で受験した海軍兵学校の1週間続いた試験は、最終日で落第し夢ははかなくも泡と消えた。とうに軍艦のいなくなった海軍に入った友人が「米国はアナポリス、おれたちゃ穴ホリス」と毎日の防空壕掘りを嘆いていたが、そのアナポリスの米国海軍兵学校を50年後に訪問しようとは、神様だってご存じなかったに違いない。


ワシントンD.C.の東、車で1時間ちょっとのアナポリスは風光明媚でおよそ軍の施設という感じがしない。濃い緑に囲まれた広い道路を過ぎるとチェサビーク湾の青い海面が広がって、兵学校のゲートで迎えてくれた水兵さんに海軍だなぁと思うぐらいだ。中山さんが事前に連絡をしていたので、博物館にはロバート・サムロールさんとジョン・ハドックさんが待ち受けてくれ、その上思いもかけず日本の海上自衛隊からの連絡官永井澄生3等海佐も同席された。長身温厚なサムロールさんはここの模型部門の長で、どちらかというと現代軍艦が専門らしい。ハドックさんは帆船が専門で、駆逐艦の艦長が似合うような鋭さを秘めた人だが、何せワシントンの交通事情はいいワインと違って年を経てもちっとも良くならないから遠回りでもベルトウエイを使えと、ホテルを出てからの道順を事細かに手紙で指示してくれた外見に似ず親切な人である。


初対面の挨拶もそこそこに、まあとにかく見てほしいと館内を案内してもらったが、お世辞でなくここの収集は素晴らしい。帆船模型の展示品の中心はロジャーシップモデルコレクションの108隻で、1650~1850年のいわゆるドックヤードモデルである。中にはケースも当時のままで、あるモデルではケースの底に進水用のレールが組み込まれていて最近になってそれに気付いたとか。ハドックさんはそれを引っぱり出して写真に撮れと勧めてくれる。このあといくつかの海事博物館を見たが、ここが一番だねというのがわれわれ一同の感想だ。この博物館は年中無休で無料だから、機会があったら是非ご覧なることをお勧めする。

 

一 般の人は入れないワークショップの中でいろいろ話しをしている内に、倉庫を見せて上げようということになった。天井も高くかなり広い倉庫にはいろいろのも のがぎっしり詰まっており、現在整理中というのだが、こういうことになると人一倍鼻の利く渡辺さんが梯子の上にあがって銀製の薩摩藩の軍船を見つけた。傍 らに漆塗りの箱に入った筆書きの文書があるという。許しをもらって拡げてみると、何と昭和35年、つまり1960年11月28日付で横須賀水交会がここ米 国海軍兵学校に宛てた文書ではないか。

 

達筆で書かれた全文をここに紹介はできないが、この文書によると、終戦時に当時のソ連が記念艦三笠の解体破壊を主張したけれども、アメリカとイギリスが反対 したために上部構造物だけの撤去で済んだ。その後悲惨な状態で放置されていたが、1958年(昭和33年)に三笠保存会ができて復元工事が始まり、募金運 動にアメリカ海軍から多大の協力を頂いた。工事は1961年(昭和36年)に完成の予定である。ついては感謝の意を表するために、元海軍大尉谷上泰造が製 作した軍艦三笠と咸臨丸の模型を横須賀米海軍基地司令官を経て米国海軍兵学校に寄贈する、というのだ。

 

日本海海戦の旗艦である三笠を、当時のソ連が破壊したいというのはあり得ることだが、それがアメリカやイギリスの好意的な反対で阻止できたとは知らなかっ た。奇しくも35年後に帆船模型を趣味とするわれわれの目に触れたのも何かの縁である。サムロールさんたちにこの文書の大意を説明して三笠や咸臨丸の模型 がある筈だが、と聞いてみたが分からないという。日本字の読めない彼らは傍らにあった薩摩の軍船の説明文だと思っていたらしい。

 

渡辺さんが無理を言ってその文書をコピーしてもらったから、今ぼくの手元にそれがある。英訳して送り、模型を探してもらおうと渡辺さんがいっていたのだが、どうなったのだろう。それにしてもアナポリスで幻の三笠に会おうとは、世の中何があるか分からない。

 


                                 1998.1.15.


アップル・サイダー

1995年の10月9日、ここニューポートニューズの主目的であるマリナーズ・ミューゼアムは後回しにして、われら一行5人はまずウィリアムズバーグの見学に出掛けた。アメリカ建国前から重要な都市だったここには、植民地時代の町筋がそっくりそのまま残っているという。だが、例によって先ずまともには行き先に着けない。

「すいません、ウィリアムズバーグはどこでしょうか?」

「ここはウィリアムズバーグだよ」

「でも?」

変な問答になったが、そう、われわれが行きたいのは「コロニアル・ウィリアムズバーグ」だったのだ。まあいってみれば町の中に「椿民地時代」が公園のように保護されているということ。

 

ところが、この街はぼくが想像していたような一皮並びの保存地域ではなくて、文字どおり街全体が復興保存され、当時の服装をした職員が、鉄砲鍛冶から銀細工屋、雑貨屋、薬屋、馬具屋に至るまで実際に実演をしている。さすがにすべての店ではなく、曜日によって開店している店は違うのだが、それはビジターズコンパニオンという新聞にちゃんとでている。保護は徹底していて、車はビジターセンターから中へは入れないし、料金もベーシックパスで25ドルと少し高いが、それだけの価値は充分にある。

 

燦々と輝く陽を受けて、もちろん舗装などないフランシスストリートからグローセスターストリートというメインの通りに抜けると、途中に小さな亭があったり、可愛らしい畑に何やら菜っぱが植わっていたり、扉を開けていきなりロングスカートのおねえさんがでてきたり、至る所で18世紀に直面する。鉄砲鍛冶は1枚の鉄板を丸めて銃身を作っているのだが、その継ぎ目をどうやって裂けないようにするのか今もって謎だ。

 

人で一杯の雑貨屋をごそごそ探し回っていた渡辺さんがピーワックスの塊を見つけてきた。この蜜ろう製のろう燭などはあちこちで売っ ているけれども、3センチも厚さのある四角い塊は珍品といえる。今でこそ東急ハンズで手に入るが、これで糸をしごけば最高だと何だかえらく得をしたような 氣になった。ぼくがこれを4つに分ける役を仰せつかったのだが、まあこれが難物でとうとう糸鋸で切った上に(直ぐくっついてしまうので)金槌で割るという 手間が掛かった。

 

 店も多いし人も多い、パカバカと馬車が来れば馬車狂いの中山さんがカメラを片手に過りかけるし、二人の嫁 さんには平等にしなきゃと平戸さんは土産物屋を漁ってどこへ行ったやら、渡辺さんは銀細工屋のスプーン作りの前で動かない。鈴木さんはと見れば、店の軒先 に突き出ている飾り看板を見て歩いてはひどく感心している。いやはや一汁かいたしのども渇いた。ふと傍らを見ると、白いメイド帽にエプロン姿の可愛い女の 子が樽の前でにっりこり実っている。

 

手書きの看板にはアップルサイダーとある。

「アップルサイダー?」

「そう、とってもいいわよ」

一 も二もなく注文すると、樽は見せかけで、中のステンレスだろう氷詰めの容器の中から、後ろにいた若い衆が大振りのコップに柄杓で掬ってくれた。茶色の少し 濃度のあるりんごジュースが好ましい香りと一緒に冷たく喉を通って行く。これを甘露といわずして何というか。子供の頃、熱を出して寝ているぼくに、母がり んごをすり下ろしてガーゼで絞って飲ませてくれて以来、こんなおいしいジュースを飲んだのは久しぶりだ。

 

「何だ、たかがり んごジュースじゃないか」といってほしくない。アップルサイダーはそんじょそこらのりんごジュースとは違う。もちろん炭酸ガスが入っているわけでもない。 ほんとのアップルサイダーは市販のりんごジュースと違って殺菌しない。つまり文字どおりの生ジュースだから、家庭かこういった特定のところでしか飲めな い。もっとも、それだけに製造や保管が悪いと問題で、アメリカではこれが原因でO・157騒動が起きた。われわれは幸運だったのかも知れないが、フグじゃ ないけれども旨いものと危険とはどうも背中合わせのようだ。

 

 

 

 

 

(ザ・ロープニュースNo.23)

 


感激のチェリーストーン

10月10日、といっても1995年のことだが、ワシントンのダレス空港を飛び立ったボーイング737機は午後1時10分、ボストン空港に着陸した。ここからいよいよレンタカーによるニューイングランドの長旅が始まるのだ。


取り敢えずわれわれのレンタカー、白いオールズモービルは長い海底トンネルをくぐって市内に駐車した。そこから地下鉄でアーリントン駅からガバメントセンター駅へ行く。なにやら心当たりがありそうな中山さんの先導で由緒ありげな店に入ると、
「いやー、こんなことがあるのか!カウンターが空いている!!」
と突拍子もない声で彼がいう。

 

ここは知る人ぞ知る、ユニオン・オイスター・ハウスというこの辺りが海岸線だった頃からある牡蛎屋さんで、今は有名なレストランになっている。午後のちょう どいい時間だったのだろう、半円形のカウンターには野球帽とひげを生やしたおじさん達2人がいるばかりで、われわれ5人が楽に座れた。これは稀有のことな んだそうで、目の前でカキを剥いてくれるのはこのカウンター席の特権なのだ。それ以外の席の分はとうに剥いたカキを皿に並べて山積みしてある。


「鮮度が違うんですよ、鮮度が!」
それほど高いとも思えない中山さんの鼻がかなり高くなる。でも、それだけのことがあるのはすぐに分かった。

 

紺色の野球帽をかぶり、えんじのポロシャツを着た店のおやじは黙々とカキを剥き続けるが、カウンターは分厚いコンクリート造りで、客席の所だけがわずかに木 の板になっている。山のように積んだカキの中で小さいものや、どうも訳は分かりかねるが眼鏡に叶わないのだろうか、かなりの数のカキを剥きもしないでぽいぽいとカウンターの下にある穴に投げ入れる。その昔、ここが海岸線だったので捨てたカキはそのまま海に入ったそうだ。それが今でも続いているとは。


6個一皿の剥き立てのカキにたっぷりレモンを絞り込み、つるりと口に入れると、とたんに海のにおいが沸き立つ。ジョッキのビールで流し込めば6個なんぞはあっという間に消え去り、さてお代わりとなったが、
「福田さん、チェリーストーンって知っていますか?」
と中山さんがいう。
「チェリーストーン?」
「そう、ピンク色の貝でシコシコして旨いんですよ、これが」


それそれ、美味いというものは先ず食べるにしかず、中山さんと2人で注文する。出てきた貝はかなり大ぶりの赤貝と蛤のあいのこみたいなもので、薄いピンク色に輝いている。見るからに美味そう。
一口噛むと跳ね返すような弾力があって、ぐっと力を入れるとプチンとかみ切れる。とたんにうま味と海の香りが口いっぱいに広がる。
「うーん、こりゃカキよりも美味い!」
「そーでしょ、言ったとおりでしょ」
中山さんも満足そう。他の仲間はあまり興味をそそられなかったようだが、ぼくはいたく気に入った。


それからというもの、仕事でワシントンに行く度に、ステーキ屋だろうと海鮮料理屋だろうと、先ずこのチェリーストーンを注文することにしている。皆さんも機会があれば是非お試しあれ、ただし、先ずボストン産か、それもケープコッド辺りで採れたのかを確かめた方がいいようだが。

 

カキを食べ終わって昼というよりだいぶ遅くなってクインシー・マーケットへ行って勝手に見て歩く。周辺も内部も人々が集い、何やら素人楽団も演奏している。食べ物はうまそうで安い。アメリカのベーグルパンをかねがね食べてみたいと思っていたが、この時は買わなかったがあとで食べてみたら日本のよりおいしい。ぼくの焼くベーグルとはちょっと質は違うがそれぞれにいい。渡邊さんと二人で菓子を買ってみたがものすごく甘い。どうも程々ということを知らないね、と笑い合った。

 

やがて地下鉄で戻ってコプレー・スクェア・ホテルにチェックイン。夜はパークストリートで中華料理を食べる。夜の街中は人気がほとんどなくちょっと危ない感じだが、こちらは多勢、それもよしか。

 

翌日、USSコンスティテューションを見てから再びクインシー・マーケット周辺を歩き、本屋で文献を探す。マーケットの周りは屋台みたいな商店になっていて、「一番小さいの」と言いながらTシャツを買った。それでも実際に着てみるとかなり大きい。

 

やがて街の高級アパート群を通りながらセーレムに車で向かったのは午後も大分過ぎてからだった。

 


ボストンとジュネーブを結ぶ弦

この6月下旬のこと、ジュネーブで開かれた会議の合間を縫って、時計博物館を見てきた。さすが時計の国のスイスだげあって、小さいけれども緑に囲まれたこの博物館は街中とも思えない良さがある。その2階だったが、一隅に長さ40~50センチほどもあろうが、鉄製の弓が立て掛けてあり、よく見ると小さな板の上に弦の絡まった心棒があって薄い歯車が固定され、7ミリぐらいのバイトがそれに接している。「ヒヤー、これだ!」思わず日本語で素っ頓狂な声を上げてまわりの青い目を驚かせたのだが、これにはそれなりの訳があるのた。

 

アメリカ東海岸を旅するわれわれ5人の最大の目的の一つは、ボストンにあるU.S.S.コンスティテューションの見学だった。朝もやが立ちこめんはかりの時間にネイビーヤードについたわれわれを待っていたのは上部解体中のコンスティテューションで、それなりに面白くはあったけれど、ろくな見学もできず、何となく1983年の会議の後に訪れたあの偉容がぼくには感じられない。われわれは隣に係留されている第2次大戦の記念艦、駆逐艦カツシンヤングを横目にして早々にコンスティテューションミューゼアムに入った。

 

この博物館はコンスティテューションの部分カットモデル(原寸大)や、本物のファイティングトップなどわれわれの興味の対象がごまんとあるのだが、その一隅にモデルシップを製作するコーナーがある。コーナーといっても低いパーティションで区切った一坪程の小じんまりしたもので、ちょっと気むずかしそうな痩身の老人と、これぞアメリカ人という感じの大柄なおじいさんの2人が作業をしていた。ウイリアム・ブローメルさんとフランク・クレメンツさんという。われわれもシップモテラーだといったらフランクさんがそりゃいい、まあ入んなさいといってくれた。

 

ありがたいのだが、5人も入ると身体を回すのにも苦労するぐらい狭い。フランクさんはコンスティテューションの製作で、もうリギンに 掛かっている。ウイリアムさんのは構造モデルの漁船とおぼしきものだが、これが凄い。もう3年もやっているのだがというが、まだ上部構造物を製作中だ。直 径が数ミリほどのコンパスには目に見えないくらいの針が回るようになっていて、誰かがピナクルを持ったら「触るな」と叱られていた。そのウイリアムさんの 木工旋盤が、5センチ幅ぐらいの板を固定して、その心棒を弓の弦を動力として動かすあの方式なのだ。ゆっくりそれを動かして見せながら、彼は動力旋盤は邪 道だという。

 

なるほどゆっくり小さな細工をするにはこれが好適かもしれない。鈴木さんは「イヤー、目から鱗が落ちた!」と 感激していたが、彼はたくさん目に鱗を持っていて、ときときそれを落とす。中山さんがそれはあなたのアイディアなのかと聞くと、彼はいやいやこんなのは時 計の細工の真似で、この本にでているよ、とその本を見せてくれた。どこの本屋でも売っているというウイリアムさんの言葉を信じて、中山さんと2人でボスト ン市内の本屋を探してみたが、とうとう見つからなかった.それでもどこがぼくの頭の中に残っていて、ジュネーブの時計博物館でその原型を見つけたとだんに 素っ頓狂な声を上げさせたというわけだ。

 

ウイリアム・ブローメルさんはコンスティテューション博物館のパンフレットにも写真が載っているかなり有名な人らしい。もしここを訪れる機会があったら、のぞいてご覧になるといい。気難しいが、やりようによってはとても親切に教えてくれるはずだ。

 

 

 

(ザ・ロープニュースNo.17)