“ザ・ロープ”こと始め

 

 

東 康生 

 

「ザ・ロープ」創設当時を語り合える仲間が、殆どいなくなってしまった。いま思い出を綴るとなるとつい私事が多くなってしまうがご容赦願いたい。

 

1977年、4月12日、初めて作られた“The Rope”の会員名簿を見ると、会員数は33名とある。会員ナンバー1は、会長だった草野さん、副は津久井さん。次いで奥村、竹内、西嶋、東と並び、9番に坪井、10番が国鉄職員で青森からの急行列車が仕事場だった肴倉、11番目が白井、12番目に当時の伊東屋の伊藤恒男社長が名を連ねている。竹内君は、いつも女性に囲まれ、日産スポーツカー、フェアレディーを乗り回す日新製鋼労組の異色書記長だった。

 

思えば、1975年、転勤先の大阪から東京に帰ってきたばかりの私に、帆船模型造りの仲間を紹介してくれたのが、大学以来の友人の西嶋君で、つれて行かれたのが、銀座・伊東屋の模型売場だった。当時の売場には一寸した応接セットが置いてあって、そこの常連が津久井、草野、竹内、やがては白井君も加わり、当時は知る人ぞ知る存在でしかなかった帆船模型談義の花が咲いていた。そんな輪に社長からの紹介で、模型売り場主任の塩澤君(その後、伊東屋の常務になる)を通して、店のお得意様だった奥村さんも加わり、7人の仲間ができた。

 

当然ながら、帆船模型造りの楽しさを語り合うばかりでは面白くない。造り貯めた作品を集めて、展覧会ができないものかと言う話になった。そのためには母体となる会を作らなくてはと生まれたのが「ザ・ロープ」で、1975年10月3日に会則をつくって発足した。

 

それにしても当時 11人でしかいない。作品数は23隻しかない。そこに伊東屋の全面協力と帆船模型を輸入元である木下通商が全国の帆船模型愛好家に呼び掛けをしてくれた。その効果は絶大で、たちまちにして大阪、名古屋、九州、北海道からも声が上がり、船が集まった。これが1976年の第一回展の始まりである。

 

当時、高級模型の中心は鉄道模型であり、鉄道模型と言えば「天賞堂」というのが世間の定評だった。その王座に斬新な帆船模型で対抗しようという伊東屋の挑戦が、帆船模型展だったといっても良いだろう。伊東屋サイドの熱の入れようは、会員番号12番として社長が名を連ね、展覧会には関田常務がマンチュアのブリガンティン“アルバトロス”を出品していることからも推測できる。

 

折から伊東屋は、老舗文房具店を脱して銀座の文化発信拠点としての意欲的展開を図り、7階に企画展示場を新設して、そのこけら落としは帆船模型展でやろう。同時に、内に向かっては新たに社内報を発行しようとしていた時でもあった。

 

  

盛況だったが素朴だった第一回展覧会の会場風景。
盛況だったが素朴だった第一回展覧会の会場風景。

少々長くなるが、その社内報第一号に掲載された私たちの帆船模型第一回展の記事を引用させてもらう・・・。「7階にオープン 大盛況!第一回帆船模型展」の見出しで始まる記事である。

 

1月18日から3週間、新設された7階展示場で、当社初めての展示会として、帆船マニア・グループ「ザ・ロープ」が“男のロマン・第一回帆船模型展”を開催した。出品者40名。作品数は実に80隻。全国で初めての催しだ。

 

7階というハンディと帆船模型という特殊な催しだけに若干の懸念はあったが、いざ開いてみるとマスコミ関係、一般来客で大賑わい、実に8,500名の来場者となった。遠く関西、東北から泊りがけで訪れた方も多く、キットを購入して帰られた。ソニー会長の井深大氏、作家の早乙女貢氏、イラストレーターの柳原良平氏、俳優のE H エリック、森繁久弥氏や日本丸船長の橋本進氏などが来場された。

 

マスコミを通じても広く紹介され、朝日、毎日、読売、スポニチの各紙、週刊誌は朝日、読売と毎日グラフに。このほか全てのホビー誌が取り上げた。NET、TBSではニュースとして放映され、このほか人気番組だったTBS「3時に会いましょう」、フジTV「小川宏ショー」、神奈川TVの放映と大反響を呼び、成功を収めるとともに、当社の催事場の在り方に多くの示唆を与えてくれた。

 

展覧会の打ち上げは、伊東屋の向かいの明治屋レストランの2階を借り切る盛大なものだった。受付に若い美人が欲しいな~と言うと、すかさず白井君が「心当たりがありますから」と連れてきたのが、今にして思えば結婚直前の奥様だった。

 

会期は、当初2週間の予定だっただが、余りの盛況に1週間延して3週間となったのも嬉しい裏話である。来場者8,500人は、銀座のノンコマーシャル展示として記録的数字であり、以後の展覧会でもこの記録を保ち続け、“銀座の新春はロープの帆船模型展であける”とまで言われるようになった。

 

これほど多くのメディアが報道してくれたのは、その頃、私が毎日新聞派遣の雑誌協会理事をしていた関係から、各社の理事たちが積極的に協力をしてく れたお蔭げでもあった。さらには、「ザ・ロープ」の名を広げてくれたのは、共同通信による全国地方紙へのニュース配信に負うところが大き かった。

 

伊東屋の社内報には書かれていないが、開催初日の朝にはNHKが会場を取材し、翌朝の番組に流している。毎日グラフは、私が写真を写し、記事は西嶋君に依頼 した。日付は1月18日号と展覧会開催日に合わせた。

 

実発売日は一週間前だから、展覧会の宣伝予告を考えて決めた事だった。会社にそんな勝手な我がままを強引に通させた若気と熱の入れようを、今となっては少々気恥ずかしく思い出している。有難いことに販売実績は、展覧会の盛況を映して上々だった。以後、販売からの要請もあって、3年ほど展覧会に前後して帆船模型特集をやっている。

 

1980 年のモスクワ・オリンピックは、日本選手団不参加が決定し、それを当て込んでいた記録写真集の発行ができなくなった。その埋め合わせとして、私の企画取材 で「帆船・海のロマンとノスタルジア」を発行し、これも良く売れた。そんな帆船人気を映して、雑誌数社から帆船模型ムックが出版される契機にもなった。

 

ザ・ロープの仲間の数も、展覧会を契機に一気に増えた。さらには、この第一回展に全国から作品を寄せてくれた仲間たちが、それぞれの地域で帆船模型の会を立ち上げたい。ついてはロープの支部として認定してほしいという申し出が寄せられた。

 

所詮は趣味の会でしかない。支部と言うには余りにおこがましいから、各地の自主的集まりとして土地の名前を付けたザ・ロープの名称で、とお願いした。こうして「ザ・ロープ大阪」、名古屋、九州など全国に15の仲間の会が友情のロープで結ばれることになり、一挙に世に認められるようになった。

 

帆船模型にこれほどに人気が集まったのは、高度成長に向かいまっしぐらに走り始めた日本人が、古い物を捨て、ひたすら新しいい物へと転換を目指した流れの中に、消え去ろうとしているものへの回顧と郷愁が呼び起こしたものだったと考えている。それはSLブームへの思いと通じるものだろう。

  

 

 

第1回展覧会開催中に放映された神奈川TVのスタジオ風景
第1回展覧会開催中に放映された神奈川TVのスタジオ風景
サンデー毎日 1976年2月1日号。3000号記念号のグラビア掲載 ”われら仲間”。
サンデー毎日 1976年2月1日号。3000号記念号のグラビア掲載 ”われら仲間”。
第1回展が終わった4月、伊豆静浦の造船所跡の民宿で幹事の慰労会を開いた。左から津久井、一人おいて西崎、竹内夫妻、草野、奥村、白井夫妻、相原、右端にセルフタイマーをセットして走り込んだ私がいる。
第1回展が終わった4月、伊豆静浦の造船所跡の民宿で幹事の慰労会を開いた。左から津久井、一人おいて西崎、竹内夫妻、草野、奥村、白井夫妻、相原、右端にセルフタイマーをセットして走り込んだ私がいる。

当時、和光の真珠を一手に扱っていた奥村さんの事務所が、伊東屋の裏にあり、私たちの溜まり場になった。みんな若かった。仕事が終わると集まり、勝手に冷蔵庫を開けてはビール飲み放題で語り合った。思わず時を忘れ、ビルの入り口に鍵を掛けられ、帰るに帰れなくなったことなど、今は懐かしい思い出である。

 

 “The Rope” と言う会の名前は、帆船にちなみ草野さんが提唱したものだが、私が「仲間の絆をつなぐロープでもありますね~」と言い添えたのも嬉しい思い出である。

 

会員証は束ねた銀のロープの中に、深い海の色をイメージさせるラピスラズリーをはめ込んだバッジとカフスで、津久井さんのデザイン。それを奥村さんが和光に特注した。初めは、それぞれに会員番号を刻んでいたのだが、いつから止めになったのか、いつから止めになったのか・・・、会が隆盛を迎え、会員が増えたということでもある。

 

「ザ・ロープ」の仲間に出会う以前から、私にとって帆船模型は憧れの的だった。海外取材に出かけると、暇を見ては各地の模型展を見て歩いていたものだった。アムステルダムのカルバー通りにあった店で、「天賞堂のSL模型を持ってきたら交換してやるよ」なんて言われたこともある。1ドル360円の時代、海外出張の予算ではとてもじゃないが手が出る値段ではなかったが、一つだけ、ビリングボートの「ドラゴン」のキットを買って帰ったことがある。

 

そんな夢の帆船模型キットが、1970年、大阪万博の年に木下通商の手で輸入された。大阪大丸デパートの模型売場に置かれたのが最初で、東京の天賞堂と伊東屋に入ったのは翌年だったと思う。海外でも高根の花だった帆船模型は、日本に輸入されるともっと高くなっていた。価格が安いビリングボート社の製品でも「サンタ・マリア」が1万7千円。よ り精密なマンチュア社のキットになると2万1千円。当時人気一番だったカティーサークは、アマティ社の豪華キットが何と11万円でだった。人気を映して国 産キットも発売され、今井科学のカティサークでも3万2千円もした。一方、プラモデルを見ると、ほぼ同じ大きさのアメリカ、レベル社のもので5千5百円だった(1976年調べ)。

 

「ザ・ ロープ」が結成の年、1975年の公務員の初任給が8万5百円。高給と言われた銀行員でも8万5千円(戦後値段史年表・週刊朝日編)の時代である。当然ながらエンゲル係数は、今よりずっと高かった。私が初めて伊東屋で買ったマンチュアのブレガリン・ギャレーは、3万7千円だった。出張旅費をチョロまかし貯めこんで、ようやく買えたキットだが、家計を無視した買い物であり、しばらくは家内に見せられなかったものである。

 

こんな思いで買うキットだから、これと決めるまでは何度も店に足を運んでは、恋のときめきにも似た思いででキットの箱を開けて見せてもらう。ようやく買うぞと 心を決めると、清水の舞台から飛び降りる思いで仲間に連絡し、店に集まってもらった。さながら儀式でもあるかのように支払いをすませると、そのまま喫茶店 に直行、一同注視の中で改めて我がものとなったキットの箱を開ける。そこにあるには、何度も確かめて納得していたはずながら、何枚かの紙切れと束ねられた 細い棒、あんなにも魅惑的に輝いていた金属部品も、妙に薄っぺらに見える。「しまった。早まったかな~」と、なけなしの財布をはたいたほろ苦さを噛みしめたものだった。それが製作に入ると、楽しくて楽しくて、全てを忘れて没頭する。 こうして一年、進水式は、当時は高級ウイスキーだったカティーサークで祝杯を挙げる。この幻滅と達成感は、何度も繰り返した今でも変わらない。

 

 

第1回展覧会場で幼かった伊藤明現社長(右)に模型の楽しさを語る伊藤恒男先代社長。40年の流れを感じる一枚だ。
第1回展覧会場で幼かった伊藤明現社長(右)に模型の楽しさを語る伊藤恒男先代社長。40年の流れを感じる一枚だ。

初期に輸入されたキットは比較的安価なイタリア製エアロピッコロ社とデンマークのビリングボード社のものだけだった。頼りにする製作ガイドもイタリヤ語の薄い冊子しかない。会社に高校時代までローマで育った女性と結婚した後輩がいて、思い余って彼の奥方に翻訳をお願いしたことがある。結果は、ラットラインはネズミ走り、キャットヘッドは猫の頭・・・・、そして意味不明と言う単語のスペルが並ぶだけ。女子高生に海事用語を読み解けるはずがない。仕方なく、辞書を片手に拾い読みしたが、さながら杉田玄白の「蘭学事始め」にも似た経験だった。

 

そんな手さぐりで歩いてきた船つくりだった。多彩なキットと英語、中には日本語に訳された解説書が付いたキットが買える今の人たちには想像もつかないだろう。

 

1975年、会発足の時に作った会則に、今は気になって仕方がない一文がある。第2章の第5条。「本会は、木材を主材とする帆船模型の製作を趣味とする紳士の・・・」とある。安価なプラモデルと、俺たちの造る高級帆船模型は、一味違うんだぞ~という、意気込みが書かせた一文なのである。

 

「ザ・ロープ」の”ザ”も気になっている。粋がって、格調高くThe Ropeと定冠詞を付けたのだが、ロープに“ザ”が付くと、ロープはロープでも意味が変わる。西部劇の hanging rope つまりは縛り首のロープであり、アメリカ南部の人種差別主義者KKKが使ったロープを意味すると知った。

 

気になっていたから来日したSMAの仲間に恐る恐る尋ねたら「紳士の心を繋ぐロープ、ちっとも可笑しくない。良いじゃありませんか・・・」と嬉しい返事をもらってほっとした。それでも日頃は言いやすさもあって、ついつい”ザ”を省いてしまう。

 

完成した模型の帆にワイヤーを通して、風を含ませたように作るやり方があるが、私はそれをやらない。見て歩いた各地の海事博物館の所蔵模型は、一様にだらりと帆を垂らしているからだ。

 

以前、長崎オランダ村にあった「プリンス・ウイレム」のレプリカ船の進水式で知り合ったオランダ国立博物館の帆船模型部門のチーフ・キューレーターで、解説書「プリンス・ウイレム」の著者でもあるハーマン・ケッテイングさんの案内で、かび臭い収蔵庫を案内してもらったことがある。

 

壊れかけた無数の歴史的帆船模型があり、永久に修繕できる数ではありませんと笑っていたが、どの船の帆にもワイヤーは入っていない。その理由を尋ねると、オーセンティック・モデルに は入れないのが歴史的鉄則であるという。その場合、ヤードは船の前後方向に直角にセットされる。「ワイヤーを入れて、風をはらませるのは、モデルシップです。だから帆は正しく風に対応していなくてはいけない」この言葉に納得したのだが、はて、皆さんはどう思われるだろう。

  (完)

 

  

 

 

*本エッセーはザ・ロープ創立40周年記念誌「ザ・ロープの足跡」(2015年6月6日発行)への寄稿文を転載したものです。

1980年(昭和55年)東京銀行のポスターとして撮影された写真。銀行だけでなく地下鉄の中吊り広告、文春7月号の裏表紙にも掲載された。
1980年(昭和55年)東京銀行のポスターとして撮影された写真。銀行だけでなく地下鉄の中吊り広告、文春7月号の裏表紙にも掲載された。