エッセイ集

イギリスという国

         
    イギリスという国 B-32  
    魚盗り B-25  
    砕氷船オーロラ B-26  
    ハンザ都市 B-27  
    ブルーノーズのペギー B-28  
    技術のマス B-29  
    三河大島 B-30  
    いかつけ B-31  

 


イギリスという国

 

 

福田 正彦 

 

長いあいだ仇敵だったフランスと相対して、イギリス海峡に面した軍港や漁港が並ぶ海岸がサザンイングランドだ。ホーンブロアもボライソーも、コンウォール地域を含めたこの海岸をわが庭のように航海し停泊したこところでもある。ここを巡り歩くのは船キチには垂涎ものといっていい。今回はそんな旅行だった。好き勝手にこの旅で感じたことを書くとすれば、何といってもこの国のそれも18世紀から19世紀を覗いてみたということになろうか。英国の底力を、だ。

 

ポーツマスの「ヴィクトリー」は産業革命が始まろうという時代の1765年に造られた。大陸ヨーロッパも含めて18世紀中葉、木造帆船技術がピークに達したの ころの実物はその船体構造といい、リギングの巧みさといい、ロープの太さといい、書物の上でなくこの目で見ることで初めて実感できる。

 

例えば鋼鉄製ケーブルのない時代に麻のケーブルがどれほどの太さがあったか、チャタムで実物を見てみな唖然としたのだ。ブリストルの「グレート・ブリテン」はもう産業革命が終った1843年ごろの産物だが、その機関室の、たぶん鍛造の復原品だろう、そのロッドの大きさや正確さなど技術の高さは一目見ればわかる。

 

日本では十二代将軍徳川家慶の時代、天保の改革で贅沢を取り締まるのに汲々としていたころに、もうこれが造られていたのだ。今のわれわれが客観的に見てもそう思うのだから、岩倉具視視察団が英国などの産業技術を目にした時の驚きは、実際に明治の黎明期を生きている者として恐怖に近いものがあったのは間違いない。明治人がなりふり構わず馬車馬のごとく祖国の発展に邁進したのはこの思いがそうさせたと思わざるを得ない。

 

一方で、英国は何百年と変わらぬ姿をわれわれに見せてくれた。石造りという特徴がそうさせるのだろうが、大都会のロンドンでは暖炉の石炭炊きを禁止されながら建物の屋根には昔ながらの煙突が群をなして厳然と残っている。道路の両側駐車を認めながら、いたるところにある芝生と樹木の広場は頑として壊そうとしない。新たな住民のために、郊外に新しいアパート群をあちこちに建てながら、旧市内の景観は馬車全盛期のままだ。この頑固さがいかにも英国といっていい。もっとも歴然たる階級社会で昔ながらの上流英国人は、ゆうゆうと所属するクラブで一杯やっているんだろうな、ちょっとフッフという気分でもある。

 

サザンイングランドを移動すると、いたるところに緑の丘陵が広がる。囲い込み地というんだろう低い石垣に囲まれたきれいな牧草地が延々と続く。中に農業機械の踏み跡が深く残った溝があって、ああ小麦畑かと気付く。牛や大型の豚をときどき見かけるものの牛舎や農業ハウスなどはほとんど見当たらない。街中はともかく、一歩郊外に出れば工業生産はもとより農業生産設備は新設してもやがて大きな樹木に隠されて見えなくなるように要請を受けるらしい。昔ながらの小さな森と牧草地こそがサザンイングランド風景だと英国人は信じて疑わない。

 

英国庶民の象徴がパブであることを3回目の訪英で実感することになった。何せ昼、夜と連日1パイントを超すビールを空けるなんて家にいたら考えられない。日吉さんという同室者に恵まれてパブの外のビール樽をテーブルにして飲む。これが不思議に飲めるからおかしい。どこのパブの外でも、カメラを向けるとヤアヤアと陽気に手を振るおじさん連がいる。ビール樽の前でカメラを向けられたら、やっぱりぼくだってヤアヤアと手を振るに違いない。パブにはそんな雰囲気がある。

 

 

2015.6

 

 

*ザ・ ロープ創立40周年記念行事として企画したイギリス南部のツアー(2015年6月17日から11日間)の感想

 


魚盗り

 

 

福田 正彦 

 

ニシンの産卵を間近で見た人はそういないだろう。あれは昭和23年の5月末、利尻島は沓形海岸でのことだ。ニシンの大群が海岸に押し寄せ、文字どおり手を伸ばせば届きそうな海岸近くまで魚影がおどる。日が昇っていくらか経っており、どんよりと曇っているものの視界は良くてはるか彼方まで見渡せる。その視界一杯にニシンが海面で踊っているのだ。やがて、真っ青だった海が海岸近くだけ突然といっていいほどすばやく、乳白色に変わっていく。これはオスのニシンが白子を放出している証拠だ。


ニシンの卵、つまり数の子だがこれは専門的には沈降性着生卵という、のだと当時魚学で教わった記憶がある。つまり産卵すると海の下に降りて、海底の海藻の表面に付着する。その上からオスが白子を放出して受精が成立するという按配だ。ちょっと可哀相な気もするが、魚の産卵というのは概してこんなものなのだから仕方ない。その代わりといっては何だが、その規模たるやちょっとやそっとのものではない。大漁歌で「網の目数ほどニシンが獲れる」というのはこの時期に立て網を揚げるとニシンのカーテンのようになることをいうのだ。日本でニシンの獲れる最後の時期で、40日間の利尻島滞在でたった1回の経験だった。

 

今でこそ北大の水産学部だと威張って(威張るほどではないか)いるが、当時の学校は惨めなもので、学寮ではろくに食べるものとてなく、漁業実習という名目のこのニシン実習でも、ありったけの食料切符をコッペパンと交換し、僅かな下着とこのパンを満載したザックを背負って函館から稚内まで24時間かけて到着したという有様。そこから更にヤン衆というニシン漁の季節労働者と相乗りで、100トンほどの機帆船にがぶられて鴛泊港に着いたのはもう日も暮れた頃で、寒いし腹はへるしで意気の上がらないことおびただしい。

 

しかし、ぼくらの目をそばだたせたのは、港に山積みされた生のニシンだ。監視の人も見えなかったし、柵があるわけではない。夜陰に乗じてこれをかっぱらってくれば、宿のストーブで炙ってたっぷりご馳走にありつけるではないか。なんでも仕切るWが、そう提案したのは時の勢いというものだろう。ぼくたちは原始共産社会(つまり誰が稼いでもみんなで使う習慣)に慣れていたから、たちまちじゃんけんで役割が決まった。

 

言い出しっぺのWとYがかっぱらい役、Hが腹の裂き役、YMとNがストーブ係りと焼き役とあって、なんと日頃じゃんけんに弱いぼくは、このときばかりは食べ るだけという幸運にめぐまれた。調味料なんて気の利いたものはないから、沖仲士のアルバイトで長靴に押し込んで持ち帰った岩塩をザックに入れてきたやつが いて、それをニシンにこすり付けて焼く。

 

石炭ストーブの火力は強い。じゅうじゅうと音がし始めるとアッチ、アッチと焼き役は飛んだりはねたり、指をなめたり、尻尾を持ってニシンを振り回したり、大 変な苦労をしてそれぞれの皿に供給する。目の下40センチもありそうな大型のニシンは、何せ産地直送だからこれまで食べたどんな焼き魚よりも旨かった。3 本も食べればさすがに腹いっぱいで、たくさんかっぱらってきたニシンをどうしよう、というのが残された問題となった。しょうがない明日の朝返しに行こう、というのがWの決断で、こういうところはまことにいさぎ良い男だ。旧陸軍士官学校出身だけのことはある。

 

翌朝、ニシンを2本ずつぶら提げて6人の若いもんがゾロゾロ港へ返しに行ったのだが誰も目もくれない。後できいたところによると、港に山積みにされているニ シンは低温での自家消化を待ち、柔らかくなった腹を指で割いて数の子や白子を取り出すのだとか。数の子を刃物で傷つけない配慮だという。


「そんな、お前たち、港のニシンなんざ、犬だって跨いで歩くさ」
実習先の肝油搾油会社の社長さんは、ぼくたちの話しにそういって大笑いした。この魚盗りはどうやら独り相撲だったようだが、何十日ぶりに麦入りとはいえ本 物のコメの飯に十分ありついてからでも、ぼくたち6人はあのときのニシンは最高においしかったと、ことあるごとに口に出したものだ。

  

2005.1.12.


砕氷船オーロラ

氷の海は不思議な表情を見せる。零下何度だろうか所々に小さな氷を浮かべた網走港を出てから10分あまり、海面はスクリューの後ばかりが泡立って、長く伸びながらそれが広がらない。その両側の海面は油の膜を広げたたようにゆっくりと上下するばかりで薄く張った氷が薄日に映えて鈍く光る。静寂の海を破るのは低いエンジン音とけたたましく後を追うかもめの鳴き声ばかりだ。


長年の懸案だった流氷見物だが、偶然案内書を見つけてから急に現実のものになった。かみさんと2人、とかち帯広空港を降り立つと待っていたのは
「ブルーのらくださんはこっちですぅー」
と、エンブレムを着けたメンバーを集合させる美人のガイドさんだった。
「ブルーのらくださん」32人はバスに詰め込まれて、昨夜零下11℃の阿寒湖の氷を体験し、この下は深さ10メートルですと脅かされ、氷の厚さは60センチ以上ありますから大丈夫ですと安心させられ、そして東部北海道の冬を見物しながら昼前に網走港で砕氷船に乗り込んだのだ。

 

砕氷船おーろら、全長45メートル、全幅10メートル、喫水3.7メートル、総トン数491トン、最大速力14.3ノット、定員450名とある。ぼくはクルーを捕まえて聞いてみた。
「エンジンは?」、「ディーゼル、3000馬力です」
「砕氷面の鋼板の厚さは?」、「37ミリです」
「砕氷能力は?」、「80センチということになってますが、まあ1メートルは大丈夫でしょうね」
「ポンプによる水の移動で砕氷するんですか?」、「いや、本船にその設備はありません。乗り上げて重量で砕氷するんです。本船の船首の下は海面に対して30度の角度になっていて、乗り上げにはちょうどいいんですよ」

 

幸い 風も弱く、ぼくは展望デッキの最後部に陣取って終始氷の海を眺めた。ガイドさんの情報どおり、流氷は着岸こそしていなかったが船で20分もすれば流氷帯に 入れるという。かもめの群れがいつまでも追ってくるのは乗客がカッパエビセンのようなえさを与えるのを知っているからだ。

 

かもめを近くで見ると、飛んでいるときの様子はいかにも典型的な流線型だが、手のひらにあるえさを捕らえようと近づくときには、翼を上に向け、足を出してス ポイラーの役割をさせる。着陸前の飛行機と同じじゃないか、いやいや、飛行機がこれを真似たんだろうな、と変なところで感心する。それでも時々は疲れるら しくて海面に降りるが、薄くても氷、かもめが海面に足で立っているのは何となく違和感があっておかしい。鳥は軽いんだ。

 

流氷帯に近づくと本船は薄く白い氷の板に囲まれる。不定形の氷の板がびっしりと海の上に浮かんでいつ果てるとも知れないさまを見ているうちに思い出した。富 山県にある「うす氷」という銘菓がまさにこれだ。厚い綿の上に載ってかなり高価なお菓子だが、あれを作った人はきっと砕氷船でこれを見たに違いない。

 

やがて本船は流氷帯に入った。ぐんと速度が落ちエンジン音が高くなる。氷海中の速度は3ノットというが、見たいものが多いからそれほど遅いようには感じられ ない。両側の氷は表情を変えで荒々しく、四角いけれども盛り上がり、時に押し合って競り上がり、割れ目から海の深い色が覗ける。これぐらいになると本船の 分けた海面はいくらもしないうちに流氷が両側から押し寄せて氷で埋まる。流氷帯を一回りして、後発の僚船を見送りながら薄氷帯に入ると航跡が残るところと 残らないところがはっきりして、流氷帯を抜けたことが分かる。

 

僅 か1時間ちょっとだけれども、砕氷船での航海はとても印象深い。日常われわれの経験できない世界を垣間見ることができるからだ。ぼくはその後、会う人ごと に「あれはお勧め!」といって歩いている。ただし、ご注意。ものすごく寒い。厚めの肌着と厚めのセーターを着、ズボンは二重にしてダウンを着込んだぐらいでないと、展望デッキの後部で終始がんばることはできない。

 

2005.3.26.

 


ハンザ都市

奇妙な縁でヨーロッパの港湾視察団に参加したことがある。1976年9月、昭和でいえば51年、36年前のずいぶんと昔の話だ。サウサンプトン、ロッテルダム、パリと回りハンブルグに着いたのは9月下旬だった。この港湾都市は河口港でありながら何ともでかい。かなりの大型船も入ってこられるという。


何しろ港湾使節団だからハンブルグ港湾局に顔を出したのだが、広報部長氏が港湾局のランチで港を案内してくれるという。ご覧の通りのスマートなランチで、現地人と結婚した日本人の奥さんが通訳で港湾視察が始まった。当時のコンテナーヤードは今から見るとそれほどの規模ではなかったが、何せ北海に近く高水位と風が激しいからと壁を作る作業が進んでいた。ケールブラント橋は吊橋で、コンテナーヤードを結ぶ高速道でもある。それを下から見る機会は観光客にとってめったにあるものではない。

 

ぐるりと一回りしてさて、と広報部長氏は質問を受けましょうという。ただし、と念を押して、
「港湾諸元や取扱量などの数字はお渡しした資料にありますから、それ以外の質問をしてください。」
これまでその手の質問をさんざん聞かされて飽きていたに違いない。

 

10人ほどの団体で、そういった制約を予期した人はいなかったようで一瞬沈黙が訪れた。しばらく様子を見ていたが、このままでは口惜しいではないか。幸いぼくは事前にドイツの港湾投資とハンブルグのそれを調べていたから、この港の投資計画はかなり大きいが国の許可を取るのは大丈夫かと聞いてみた。彼はにっこり笑ってハンブルグは「特別市」だという。州と同じ権限があるし国の制約を受けずに予算を執行できるのだそうな。

 

そう いえばハンブルグの正式名称は「自由ハンザ都市ハンブルグ」だったなあ、国名だってドイツ連邦共和国だ(当時はまだいわゆる西ドイツの時代で、東ドイツと いわれたドイツ民主共和国もあった)。思いもかけずハンザ都市が顔を出し、日本の体制と比べてこの時ぼくは初めてここは欧州なんだと強く実感した。

 

そ れから面白くなって特別市と国の行政、ヨーロッパで発達している水運と海港との関係、干満差の激しい北海の港湾の特徴などぼくひとりで聞きたい放題に質問 した。さすが広報部長氏で的確な答えが返ってきたが、一番気の毒だったのは通訳の奥さんだった。何せ専門用語ばかりだから、あるいはこちらの聞き間違いも あったかもしれない。

 

この通訳さんは後で面白い話をしてくれた。ドイツの子供たちは生意気だというのだ。何でもドイツでは家の敷地と道路の間に公共の部分があって子供たちがそこで騒ぐから、静かにしなさいと叱るとここはあなたの土地ではないと言い返すという。

「それでも、あなたたちのパパやママはなんというかしらね、と言ったら静かになりましたけれど。」権利意識は子供のころからしっかりしているようだ。

 

やがて港湾視察が終わって広報部長氏は、今日は大変有意義な議論ができたと半分お世辞にしても固い握手をしてくれた。なんだか自慢たらしくて恐縮だが、そんなこともあってハンブルグはぼくにとってとても印象的な街だ。もちろんレーバーバーンの話はこれとはまた別だ。

こんな時代のぼくが今と全く違う「頭」を持っていたことを最後に証明しておく。

 


2011.12.28

 


ブルーノーズのペギー

飛行機が飛ぶのはだねぇ、翼の上と下と長さが違って・・という説明にうちのかみさんは耳もかさず、飛行機は飛ぶのよ、と断定してはばからない。放っておけば落ちるのにあの重いものが飛んだり、着陸の時に翼から何層のもフラップがウィンウィンと重々しく降りてきたり、これぞ飛行機とぼくの胸はドキドキするのだが、そうは思わないヤツがこの世の中にいるというのが不思議だ。ぼくは飛行機に乗るのが好きだし、だから外国に行くのが好きだ。

 

その外国でもらった宝物が2つわが家にはある。その一つは「オーダー・オブ・ザ・グッドタイム」の会員証、日本語で何というのだろうか、好日騎士団というと大げさだが、良い時を共に過ごそうという友好の士の集まりである。1606年の創立と重々しく印刷されていて、上にはミスター・マサヒコ・フクダとちゃんとタイプされている。もともとはカナダに上陸した植民者が過酷な冬を無事に過ごすために、美味しい食事を共にすることから始まったという。そのメニューにはムース(大鹿)のミートパイ、柔らかいビーバーの尻尾、新鮮な鮭、カリブーのロースト、雌ガチョウの胸肉のローストといったいくらよだれを垂らしてもいまでは食べられそうもないものも並んでいるのだから、さぞ志気も上がったろう。これは北アメリカで最初という歴史のある大変な倶楽部なのだ。まあ種を明かせば、この会員証はわが会の仲間とカナダはノバスコシアの帆船ブルーノーズのクルーと交歓をしたときに贈られたもので、そのいい思い出になっている。

 

1990年の9月、武川さんや金森さんのお世話で一行17人がハリファックスを訪問したのだが、事前にカナダ大使館を通じて連絡をしていたこともあってか市長さんは大いに張り切り、市庁舎の一室で歓迎のレセプションまで開いて下さった。女性の収入役さんがこの部屋でワインを飲むのは初めてよといっていたから、いかに歓待してくれたか分かろうというものだ。

 

ブルーノーズはハリファックスにはいなくて、そこからバスで2、3時間ほどいったルーネンバーグという小さな町に係留されている。そこへ行くまで、カナダの東海岸は延々とダグラスファーだろうか明るい林が続く。車ともほとんどすれ違わないが、所々に小さな村があって、思いもかけずベッドと朝食を提供するB&Bのひっそりした看板に出会ったりする。ここは黄葉する木ではないけれども、鮮烈な空気と鮮やかな陽に照らされた林が何とも心地よい。

 

やがてわれわれが到着すると既にハリファックス市の観光局から係りの人到着していて何かと世話を焼いてくれる。係留桟橋には現地のクロニクルヘラルド紙の記者までいて取材を受けるという珍事まであった。1990年9月24日付の同紙にはブルーノーズを背景にわれわれを写真に撮っている武川さんの姿が3段抜きの写真で掲載され「日本の旅行者達ブルーノーズ訪問の熱望を果たす」と大見出しまでついているから、よほど珍しい出来事だったのだろう。

 

結構大勢いた現地の見物人達を尻目にして、さあどうぞとこのスマートなスクーナーに乗り込んだわれわれに、キャプテンは特別な演説をしてくれた。普通の見学者には危ないから制限をするのだが、あなた方は船のプロだからどこへ入っても構わない、どうぞ心ゆくまで見学をしてほしいといったのだ。まあ乗る方はプロではないのだけれども、そういってもらうと心嬉しい。早速あやしげな英語(立派な英語の人もいるが)を操って、みんながこの甲板の材質は何だとか、通信装置はどうだとか聞いて回るし、ギャレーまで覗いて見るし、鈴木さんに至ってはどうやって克服したか言葉の障害なんぞは何のその、専門家同志のいきが合うのか機関長のドナルドと早速仲良くなって、狭い機関室に入り込んだまま出てこない。

 

ドーリーというのだろうか、平底ボートのレースがこの日に行われていて、岸からも盛んな声援がとんでいる。そのために遅れたと後になって聞かされたが、予期せぬことにやがてブルーノーズは桟橋を離れ、大西洋へと乗り出したのだ。快晴の下、岬を回って大洋へ出ると、すぐにセールを張った。残念なことにこの日はまったく風が無く、エンジンでの航走となったのだが、9月の大西洋は少し寒いけれどもウィンドブレーカーを過ぎて行く風が快い。大型スクーナーで大西洋を帆走(帆を揚げているのだから)するなんて、思っても見なかった歓待だ。ホーンブロアもボライソーもこの海、この海域を行き来したのだと小説も現実もごっちゃになって感激に浸る。        

 

そのうち、一等航海士がおれの部屋を見ないかと誘ってくれた。どれどれと狭い階段を下りて個室を覗くと、狭いながら生活のにおいのする部屋で、奥さんだろうか写真がピンで留めてあるのがほほえましい。このチョッサーは顎ヒゲを蓄えたちょっとした美丈夫だ。港に入るときには左足をビナクルの台に預け、左前腕を膝に乗せて前方を伺いながら女性の繰舵手に静かに進路を指示するところなんぞ、まことに格好がいい。この船には2人の女性クルーがいて、そのもう1人がジブを降ろすときはダウンホールを握って男性クルーに負けずに舷側を猛烈な勢いで駆け抜ける。ほっそりとした長身の美人だったが、どうしてどうして体力の方も男に負けない。

 

船着き場のすぐ近くにあるレストランに、われわれはブルーノーズのクルーを招待した。なるべく交歓しようと、わが一行とカナダ側がバラバラに座る。何と幸いなことにぼくの隣はダウンホールを握って駆けていたあの女性だ。うって変わってちょっと恥ずかしそうにペギーと名乗った彼女は、ハリファックスに住んでいて夏のシーズンだけ船に乗っているのだという。そろそろ今年のシーズンも終わりだから、うちに帰るのだとか。

 

やがて盛り上がって、日本語と英語がチャンポンに飛び交う中を、ぼくらの製作写真を回覧していたのだが、さすがにヨットには興味があると見えて、若い向こうのクルーの1人がこれは誰が作ったのだと、ぼくの「ばはん」の写真帳を振り回す。ぼくだぼくが作ったのだと、アルコールの力も借りてこっちも立ち上る。そこら中でバッジの交歓やらサインのやり取りがある。後ろにいたキャプテンのドンと鈴木さんが独り占めしていた機関長のドナルドにサインをもらって、隣のペギーにもサインしてよとブルーノーズのモノクロ写真を出す。私はクルーにすぎないなのにいいの、と思いもかけぬ返事が返ってきたが、ぼくはペギーのサインがほしいんだと強要した。ペギー・アライデスと署名した後に、彼女は括弧してクルーと書いた。船の掟が厳しいのかもしれないが、まことに可愛らしい。

 

オーダー・オブ・ザ・グッド・タイムの入会資格はノバスコシアに3日間以上滞在することなのだが、会員には4つの要望がなされる。良い時を過ごすこと、ノバスコシアを気持ちよく思い出すこと、この州を友好的に吹聴すること、この3つはぼくも既に果たしつつある。そして最後の一つ、もう一度ノバスコシアへ帰ってくること、は未だに果たせないでいる。これはぼくの願望でもあるのだ。

最後に、もう一つの宝物に触れておこう。これはアメリカ合衆国アナポリスの海軍兵学校にあるネイバル・アカデミー・シップ・モデル・ソサイアティの名誉訪問者証である。いつかこれについても書く機会があるかも知れない。 

 

1997.12.8.


技術のマス

世の中に幸運の偶然が重なることがある。毎年ワシントンで開かれる会議が、今年はどういう風の吹き回しかフロリダはオーランドで行われた。1週間続く会議で、最終日の前日は事務局の整理日で会議は休み、それがちょうど木曜日。おまけに、ミッチというハリケーンが来ていながら抜けるような晴天だった。だからぼくはディスカバリーの打ち上げを見ることができた。


あやしげな英語を駆使してやっと切符を手に入れたバスだが、コンダクターは若いメキシコ系とおぼしいおにいさんで、「ツリオロスパンチョス」と「パレオロガス」を足して2で割ったような彼のへんな名前はとても一辺では憶えられない。1時間もかかってピックアップした乗客の大部分は年輩のアメリカ人だったが、彼らはやすやすとその名前を覚え、現地に着いたらその「パレオロパンチョス」に付いていけばいいのよ、と隣の席のおばさんがぼくの世話を焼く。

 

ケネディ宇宙センターはフロリダ半島東岸の砂州にあって、中間の海を10マイル隔てた海岸がわれわれの見物場所だ。先行組が既に海岸線に沿ってパイプ椅子を並べ飲み食いしながらわんさと待っている。その後ろで燦々と陽を受けて立ち尽くすのだから暑いこと。なにしろ打ち上げ時刻までまだ2時間半もあるのだ。臨時に置いてある大型のスピーカーは「本日のウインドウは2時間30分」といっている。
「失礼ながら、ウインドウってどういう意味か教えてくれませんか?」
「ああ、それはですな」と粋に麦わら帽を被った老人が「予定を2時間半過ぎたら今日の打ち上げはないということですよ。ところでこれで見てごらんなさい。」
親切に双眼鏡を貸してくれ、遥か彼方の打ち上げ台にディスカバリーが蹲っているのが見えた。     

忍耐 の2時間が過ぎる頃になると、中継のスピーカーがあわただしさを増し、見物客も何となく落ちつきがなくなる。1962年、マーキュリー計画のフレンドシッ プ7以来36年振りでジョン・グレンが宇宙に戻ってきたと、しきりにスピーカーが言い立て、少し前には短いインタビューにグレンと、次に人気のある向井さ んが応じていた。
「アイム、ファイン」
と唯一の女性の元気な声が聞こえてきたのは嬉しかった。

 

やがて秒読み。何回かこの「ファイブ・ミニッツ・カウントダウン」が繰り返される。いつ本番になるのやら、乗っているほうも楽ではなかろうが、待つ身も辛い。そして以外にあっけなく、「ファイブ、フォー、スリー、トゥー、ワン、ナウ・リフト・オフ!!」
といったんだと思う。突然、という感じで白煙が猛然と横に広がった。 

 

やがてゆっくり、ゆっくり、ディスカバリーは偉容を見せ、煙に持ち上げられるように地上を離れた。その頃になると決して耳を聾するというのではないけれど も、腹に響くような轟音が辺りを圧して聞こえてくる。そして閃光。うす黄色を頭にした白色光が思ったよりずっと大きく、辺り一面に輝くように空を昇る。濃 紺の空へ、宇宙へ、太い真っ白な煙を従えて輝く光が昇る有り様は、見ているものに身の震えるような感動を与える。

 

やがて魔法が解けたように、人々は歓声を上げ、やたらとまわりじゅう肩を叩き、握手を交わす。ぼくも隣のおじさんと握手をして、ついでにチアキと同じ日本か ら来たんだぜ、と宣伝する。言葉には尽くせないというが、こればかりは体験しなければ分からないだろう。テレビで何回か打ち上げを見たことはあるが、それは写真で山を見るのと実際に自分で3000メートル級の山頂に立ったぐらいの差があるのだ。

 

しかし今、ぼくは何であんなに感動したんだろうと冷静に考える。そういえば前に同じような経験をしたことがあった。極寒の2月、北京の天安門を見上げたとき だ。天安門なんて映像でいやになるほど見ているが、実際にその下に立つと圧倒される。門、という機能からすれば、あんなに厚みも高さも必要はない。もしあ るとすれば、それは圧倒的な大きさというか、マスの力で権力者が人々を圧倒する目的しかないだろう。そして天安門は今でもそれを具現している。

 

そういった権力だけの目的ではなく、ディスカバリーはその建造も運営システムも、膨大な知識と技術で支えられている。そして何よりも長い実験と失敗の繰り返しがあり、制御コンピューターのソフトにハイフン一つ忘れたがために打ち上げに失敗したこともあるという。有人飛行になっても2回の重大事故すら起こして いるのだ。こういった知識と技術と更に長い経験が膨大な技術のマスとなって、それと気が付かなくともわれわれを圧倒し、そして大きな感動を与えるのではあるまいか。ぼくにはそうとしか思えない。

 

 

 

 

1998.12.24

 


三河大島

ひょんなことから、蒲郡に泊まることになった。愛・地球博と銘打ったエキスポにノコノコ出掛けることにしたのだが、なにせ名古屋周辺に泊まるところがない。盛況だという。日帰りはきついし、かねて一度は行って見たいと思った蒲郡にこの際だから一泊となった。


蒲郡は渥美半島に抱かれた三河湾の奥にある静かでひなびた港町だ、と思っていた。長い橋を渡って、島全体が神社という竹島の周辺を雨に濡れながら回ったときも、うっそうとした樹木に囲まれた境内にいたときも、ひなびたという表現に違和感はなかった。かみさんがちらと見た看板を訪ねて三河名物みそ田楽で昼食をとった時もまあそうだった。

 

この田楽はうまい。5センチに15センチはあろうかという豆腐を竹串に刺したものをおやじさんがずらりと並べて丁寧に焼く。焼き上がったのに表裏みそだれをベタにつけて更に焼く。もう一回たれをつけて専用の木箱に5本も並べてヘイ、と出されたらまずかろう筈がないのだ。おそろしく時間は掛かるけれども、人通りのほとんどない海岸通でここだけは大変な盛況だ。「評判はいいけどね」と店を教えてくれた酒屋の枯れたじいさんの言ったとおりだった。

 

三河大島へ行くには船を使う。時期でないから1日3便ということでわれわれが乗り込んだときは2人だけ、専用船となった。第三こがね丸は40人乗りの小型船で、ブリッジの前の方にある低い船室では救命胴衣を入れる箱が腰掛になっていて、座っても足がブラブラするほど高い。まぁ足も短い。後部甲板はパイプ椅子が取り付けられた吹きさらしだ。

 

時間が来ると若いお兄さんが多分船長だろう、キーを回して主機を始動させる。すでに冷房が入っていたから補機も持っているようだ。ゆっくり堤防を回ると船長さんはエンジンを一杯に開き、後部甲板に頑張ったわれわれにはディーゼルの振動が直に伝わる。ブリッジに入り込んで何ノット出ているのと聞くが、
「さあな、あ、ここに書いてある。一杯で16ノットだ。」
そうだろう、遊覧船にしてはかなりのスピードでしかも二本足のようだから、港から10分ちょっとでたちまち大島に着いた。

 

着いたはいいが、彼方を見回しても誰もいない。こっちは海水着もなけりゃ着替えすら持っていない。折から射してきた日差しの中で、最終便までの2時間をどうやって過ごそうか。少し奥へ入るとここ大島は海水浴場らしく、バーベキューの設備があってどこから来たのか若い連中が海の家で2、3組たむろしている。仲間には入れないし、かみさんと二人氷水を買って何もすることはないから片隅でぼんやりすることになった。泳ぐわけでもなし延々とよく食べるねぇと感心しながら、いつとはなしにうとうとしていた。


「行こう、行こう!」と女の子の声がする。ひょいと見るといがぐり頭の大男が若い女の子を連れて海の方へ行くところだ。女の子はTシャツにジーンの半パンで、おいおい大丈夫かと見守る中を海に入るがここはかなりの遠浅で、腰までの深さでいがぐり頭を待っている。一方の大男は浮き玉の柵の外側に止めてある水上バイクまで泳いでゆっくりそれを女の子のところまで回すと、前席に乗せて後ろから抱えるようにしてスロットルを全開にした。たちまち轟音と共に大きな水しぶきが上がり、あっという間に彼らは島影に隠れてしまった。


「タコ入道め!」
いささか妬けて、叫びはしなかったがぼそりとかみさんにつぶやいたもののタコ入道ばかりではなかったのだ。半島の反対側に舫った真っ赤なモータークルーザーには、東南アジア系の女の子ばかりを乗せた「店の船だけどね」というおじさんがいたし、延々と食べ続けていた若者たちは、午後4時になったら舫ってあった2隻の船に分乗し、轟音と水しぶきを残してたちまち消えてしまった。


結局わが第三こがね丸は、またわれわれ2人のための専用船となって蒲郡の港に引き返すことになった。だから、蒲郡周辺は決してひなびた港町ではないのだ。

 

2005.7.23.


いかつけ

「福田さん、あんた何で”いかつけ”知ってんの?」

と横浜帆船模型同好会の菊地さんがいう。奥尻島出身の強者だから、抜けていない北海道は南部のなまりが懐かしい。

 

「わいわいクラブ」という集まりがある。ザ・ロープの会員が主だが、横浜帆船模型同好会のメンバーも参加しているし、全く両方に関係しない人もいるたいへん開放的な、文字通りみんなでワイワイいい合える小さな会だ。勝手にそれぞれの蘊蓄を傾ける会合は面白いのだが、そのあとの二次会で一杯やりながらの雰囲気がまた抜群。菊地さんの話はその時のことだ。

 

ぼくが旧制中学校の4年生の時に日本は戦争に負けて世の中が平和になった。しかしぼくは学徒動員を名目にちっとも勉強をしていなかったから函館くんだりまで都落ちをして魚屋の学校に入ったのだ。終戦直後という時期は若者にとって希望はあったが何といっても食べ物がなくていつも腹を空かせていた。おまけに金も、もちろんない。「以下の者授業料滞納につき、至急会計課まで納入されたし」なんぞという張り出された紙にぼくの名前もあったりした。

 

当時は軍隊にいっていた連中が復員してきてクラスの仲間になっていたから、年齢差は最大12歳もあった。前は海軍大尉という強者までいたのだ。普通の新入生と違ってほとんどが世間慣れした連中だったから腹がへればすぐに対抗措置をとる。函館は有名な港の割には港湾設備が悪くて大きな本船を接岸させる岸壁がない。

 

どうしても沖掛かりになってサンパンで荷物を運搬する必要があった。

軍隊指揮の経験のある仲間がたちまち人数を集めて、沖にいた肥料運搬船から海岸にある肥料会社までの原料運搬を一手に引き受けてきた。

「お前とお前はサンパンからの荷揚げ係だ」

「お前たちはトロッコにそれを入れろ」

「お前は体が弱いからタリーを務めろ、しっかり記録しろよ」

「お前たちはでかいからトロッコを押す係だ」

などなど、あっという間にシステムが出来上がった。船は係船料を取られるから荷揚げは早いほど歓迎される。当然割り増しもある。ぼくたちは若かったから、腹を減らしながらも懸命に働いて丸2日ですべての原料を会社の倉庫に運び込み、当時としてはかなりの金額を受け取った。

 

学生寮の生活はいわば原始共産社会で、アルバイトで稼いだ金は部屋のメンバー4人の共同金庫(といっても単なるボール紙の箱だが)へ皆が入れる。その金庫からは部屋のメンバーなら勝手に出して使っていい。授業料や寮費以外の生活費はそうやって運営されていたが、誰もそれを不思議ともおかしいとも思わなかった。化学実験のある時は時間がなかったからほかの仲間に養ってもらうのが当然だし、暇があればみんなのために金を稼いでおくのがこれまた当然だったのだ。肥料会社からせしめた金はタリーでもトロッコ押しでも差別することなく平等に分配された。ついでにいえば、志願しながら風邪をひいて作業に出られなかった仲間にも、だ。

 

まあしかし、肥料運搬船はそうしばしば入港するものでもない。さてどうしようかとみんなで思案投げ首をするうちに朗報がもたらされた。こういう時の先輩は有難い。お前たち知らなかったのか、いかつけで稼いで来いというのがそれだ。先輩たちにとってはかなり頻繁にある稼ぎ場だった。

 

北海道の最南端は2本の短い指を開いたような半島になっていて、函館はその中央に位置する。その東側、地図でいえば右側の半島に恵山という山があってその沖、われわれのいう恵山沖がスルメイカの好漁場だった。

 

夕方、10トンほどのイカ漁船に話をつけて(因みにわれわれの学校は函館では最高学府だったから話は早かったのだ)乗り込むと、素人のぼくは船の舳先に割り当てられる。中胴部と違って舳先は海面から高いから、釣りの効率が悪い。まあ学生の専用場所ということになっている。ちょっとした板で囲ってあってこれがぼくの縄張りだ。

 

ポンポンとゆっくり走るイカ釣り船はそれでもフルスピードで、夜中には恵山沖に着く。真っ暗闇の中で集魚灯をつけると運が良ければイカがわんさと寄ってくる。イカ釣りにエサはいらない。トンボという陶器の10センチ程の筒に逆針が何段か回っている漁具を海に入れるとイカの脚に引っかかって吊り上げられるという寸法だ。玄人の漁師は両手で2本のトンボを操り、4つの針で豪快に釣り上げる。ぼくは糸で操る2本しか針がない仕掛けなのでひどく効率が悪い。それでもいい時には「センヅケ」といって千匹ぐらい採れることもあるのだ。

 

翌朝、目を赤くしながら港に帰ってくると待ち受けていた大きな籠に獲物を入れる。半分は船主の取り分で、あとの半分をもらえる。当時スルメイカの浜値は一匹2円だった。めったにないことだがセンヅケなら1000円になる。寮費が1ヵ月1400円の時代だからぼくたちにとっては相当の収入だった。もっともつい気が緩んで海宝麺を夢中になって食べたり、コメを買ったりしたから共同金庫に入るのは7割ぐらいだった。海宝麺とはわけのわからない海藻を煮てところてんのように細長くしたもので、街の食堂にはそんなものしかなかったのだ。

 

函館人はイカ漁をイカ釣りとは言わず必ず「イカツケ」という。いわば業界用語で、菊地さんはそれを知っていたから驚いたのだ。それからすっかり意気投合して魚談議に花が咲いた。煮魚のさばき方が上手いといってほめてくれたのも菊地さんだ。函館地方独特のイントネーションを聞いているうちに、70年近くも前のほろ苦くも懐かしい思い出が湧いてきた。しかしこれはちょっと恥ずかしくもあるのだ。

 

 

2017.10.21