9.音戸の瀬戸

 
 

音戸の瀬戸というのは上の地図のように、呉市の南にある半島と倉島島との間にあるごく狭い海峡である。東から来る船が呉の港に入ろうとしてこの瀬戸を使わなければ、倉島島や江田島を大きく回らなければならない。音戸の瀬戸を通過すれば呉港はすぐ目の前だ。だからこの瀬戸はいろいろな意味で重要なところといっていい。

これは昔から認識されていたようで、平清盛が開削したというのだが、地質学的には昔から分離されていたという。清盛はそれを広げたのだろう。工事を終えるために夕日を呼び戻したという伝説で、音戸の瀬戸に面して「清盛塚」もある。おそらく曇っていた空が、清盛の「戻せ、戻せ」と呼ばわった時にたまたま晴れてきれいな夕日が出たのではあるまいかとひそかにぼくは思っている。権力者はパフォーマンスが好きだから、そんなこともやりかねない。

それはともかく、われわれのバスがここに着いたのは午後4時20分だった。ちょっと長い時間だったのでぼくはトイレに行きたくて仕方ない。大きな建物に入るとすぐそれを探して用を足した。ところが出てくると誰もいないのだ。あらまあと外へ出て探し回ったが、どうもそれらしいところはない。もう一度建物に戻ってじいさん連の団体を見なかったかと尋ねるとたぶん2階にいるだろうという。エレベーターで上がるとなるほど皆そろってガイドさんの説明を聞いている。何事もなかったように、そっとそれに加わって安心した。

2階の前が展望台になっていて音戸の瀬戸が一望に見渡せる。この瀬戸は幅が90メートル、可航幅は60メートルだという。潮流は最大4ノットというから時速7.2㎞もある。1日に700隻余りの大小の船が通るというからいかに利用されているか分かろうというものだ。


平清盛の時代といえば1167年ごろ、日宋貿易のために開削したと伝えられているから12、13世紀にはもうその重要性が認められていたことになる。館内の説明板の空中写真を借りてこの瀬戸を上から見ると中段の写真の通りものすごく狭い。下の写真のように実際にこれを見ると対岸がすぐ目の前、ということになる。

道路のわきに見えるのが清盛塚で、交通が頻繁だから今はそこに入ることはできない。ぼくが中学生の頃、海軍経理学校の農場へ学徒動員ということで学校から配属されたことがある。その予備訓練で、当時品川にあった海軍経理学校でカッターなどを漕がされたが、教官の話ではこの音戸の瀬戸を「一本足の駆逐艦を駆って全速で走った」と自慢した艦長が昔はいたというのだ。

一本足というのは一軸のスクリューをいうのだが、うまく舵を取らないと危ない。昔のことだからそういう武勇伝も成り立つのだろう。それほどこの瀬戸は危険で、しかも重要だったのだ。


音戸の瀬戸でのもう一つの収穫は、打瀬船(うたせぶね)だ。網を打ってから大きな帆で船を横に進めて海底のエビ類や底物の魚介類を獲ったという。面白いのは夏場の風のない時期、海に大きな海帆を入れ、潮の流れを利用して操業したのだそうな。

打瀬船は北海道にも、霞ケ浦にもあって昔はそう珍しいものではないが、海帆を入れて操業するというのは他ではないだろう。潮流の激しい瀬戸内ならではの漁法 ではなかろうか。その他、この辺りは魚が豊富で、大きな漁船で時には朝鮮半島まで出漁したらしい。いずれにしても瀬戸内海は魚類が豊富で、戦前は大いに漁業が発達した。ここの漁船は山口県から鞆の浦まで出漁したと案内板はいっている。

 

展望台でガイドのボランティアをしてくれた人は、最後に土地の唄を歌ってくれた。何の唄だったかぼくにはよく聞き取れなかったのだが、その歌声は素晴らしいものがあった。バスガイドのようないわば職業として唄ったのではない。この土地で、おそらく生まれ育ったのだろう、日ごろ慣れ親しんで唄っている仲間もいるに違いない。朗々と、それでいてとても楽しんでいる様が聞いていてよくわかる。いや見事な歌声だった。

午後5時4分、われわれは音戸の瀬戸を後にして呉市に入る。途中呉港で造船所が見えたり潜水艦があったりでじいさん連中はバスの中で色めき立ったが、まあ、今日は陽も暮れたことだし、それは明日のお楽しみ。間もなく呉の阪急ホテルに到着した。夕食は駅中の寿司屋でとったのだが、カキがあるぞという看板に偽りがあって、ちょっと貧弱な食事となった。まあ、明日があるさ。


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