8.松濤園周辺

 
 

御手洗を後にバスは大崎下島の北岸を通り、豊浜大橋を渡って豊島を過ぎ、豊島大橋を渡ると上蒲刈島に入る。ここは「安芸灘とびしま海道」の中ほどになる。 これはちょっと大きな島でその南岸を走り、蒲刈大橋を通れば下蒲刈島の東端に着く。そこが松濤園のあるところで午後1時35分、われわれは今そこにいる。

松濤園というのは、下のように陶磁器館、御馳走一番館、あかりの館、蒲刈島御番所の施設全体の名称で、外部から移設しあるいは復元したものだという。まあ風 光明媚の地にあるが、ここの売りはなんといっても朝鮮通信使接待の展示だろう。朝鮮通信使が何回も日本に来ていたことは知っていたが、海路を通って江戸へ 向かったとは知らなかった。考えてみればその方がずっと楽で、警備上も都合がよかったのだろう。しかしこの瀬戸内海でこんな歓待が行われたとは知らなかっ た。それが御馳走一番館という館で展示されているのだ。

 



一行を運んだ船はどちらの国で作ったかわからないが模型を見るとなかなか豪華なもので、これで瀬戸内を通ったらかなり目立っただろうと思わせる。説明によると朝鮮通信使が来るとなると徳川幕府は御馳走所という、接待する場所を選定し、同時に担当大名を指名する。指名される大名は迷惑だったかもしれないが、幕府指定の「七五三の膳」という供応をしなければならなかったらしい。下の写真がそれかどうか不明だが、なんでも材料を変更することができなくてえらい苦労をしたと説明されている。もっともこれはいわゆる「見せ膳」で通信使が食べたのではなく、実際の食事は別だったらしい。

それにしても、これほどあちこちと寄りながら歓待されるのだからいい時代だった。お茶を飲んでもその茶器は「献上」したというのだから、幕府側、というより大名側の出費もばかにならなかっただろう。こういう饗応を見るといつも思うのだが、見せ膳なんぞ後でだれが食べるんだろう。

見せ膳
見せ膳

江戸時代にこの島の三之瀬というところに公式の「海駅」が設けられていたと説明板に書いてある。松濤園内の蒲刈島御番所がその位置だったかどうかははっきりしないが、御番所には蒲刈島繋船奉行が常駐しそれなりの規模の取締機関があった。幕府は瀬戸内の水運をしっかり押さえていたのだ。また「高札場」も併設されていたという。

 

高札場というと町の人たちが集まって字の読めるのがみんなに解説するというテレビ場面を想像するが、この説明によるとそんなものではなく
「高札場には幕府の庶民統治上の根本法が盛られ…その管理は厳重を極め…通行する際には敬礼させるなど…法の尊厳さを教え、幕府の尊厳を誇示…」
とあって庶民統治の重要な方法であったらしい。こういうこともわれわれには新しい感覚だ。

松濤園の周辺はまことにいい景色だが、海はかなり潮が早く実際に近くによってみてみると川の流れのような感じがする。ゆるく渦を巻いてもいるから瀬戸内の海は風よりも潮に乗らなければならないのかと改めて感じる。

やがてガイドのおじさんは松濤園の裏口から道路を渡って向かいにある蘭島閣美術館にわれわれを導く。もうこのころになるとじいさん連はいい加減くたびれてきて、あんまり身を入れて見学をしない。この美術館で印象に残ったのは階段の柱に使われている大きな木で、二階まで一本がすっきりと通っていた。

 

それでは、というわけでもあるまいが、美術館の横にある狭い坂を上って白雲楼でお茶を頂くことになった。休めてお茶が飲めるなら有難いとみんなぞろぞろと坂を上る。ここは高台だけあってまことに景色がよく松濤園越しに瀬戸内海が見渡せる。

座敷に通され、やれやれと緋毛氈にかしこまって出されたお茶を堪能したのは女性陣で、男性陣はやれやれの方が先行してか何となくだらしない。まあ歳だから勘弁しようか、という感じだ。

こうやって、午後3時40分に松濤園をバスが出発、本土に入って呉を目指す。


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