大崎下島の東端に御手洗という街がある。ここはもう広島県の呉市に属している。大三島や岡村島は愛媛県の今治市だから、瀬戸内の島々の地域的な所属は複雑でよくわからない。やがてバスが停まるとそこが御手洗だった。「おてあらい」でなくこれは「みたらい」と読む。
後でいろいろ聞いて驚いたのだが、ここ瀬戸内の水運はわれわれの想像をはるかに超えていた。まあいわゆる帆かけ船や櫓のことだから速度といったらせいぜい数ノット、つまり時速10km程度だから陸上を馬で走った方が早い。しかし船はなんといっても荷物を運ばせたら馬車なんぞは比較にならないし、海に坂道はないのだ。しかも瀬戸内海は干満潮差が激しく、船は風に乗るより潮に乗れといわれていたという。実際にわれわれはこの目で潮の速さを見ている。だから海域を知る熟練の水夫に任せればかなりの速度で移動できただろう。
しかし、潮の流れが速いことは同時に泊地としては不適当で、そういった意味で南北ではなく東西に開けた御手洗港が優位に立ったという。上の地図を見ると御手洗は半島がちょこっと東西に延びている。そのためにいい潮溜まりができて行き来する船の停泊地として栄えたそうな。櫓漕ぎの時代は岸沿いの航海で「地乗り」といわれ、あちこちの島に港ができた。帆走時代の北前船などは「沖乗り」といわれたそうだが、それでも停泊地は必要だった。そういった意味で御手洗はかなり発展したという。
舟運による交易が盛んだったと、名前を忘れたが案内をしてくれた人は強調する。御手洗の名の由来に至っては神功皇后の三韓征伐や、菅原道真の太宰府左遷、果ては平清盛までその説明に出てくる。真偽のほどは疑わしいが、伊能忠敬の測量や、シーボルト、吉田松陰、更には幕末の七卿落ちの立ち寄り地だったということになるともう歴史が証明している。
実際に幕末には薩摩藩の船宿がここに設けられ、いろいろ政治的に利用されたというから、騒乱の時代の人々の交流には舟運が大いにものをいったに違いない。そして人が集まるということは、当然ながら港が繁盛し、宿ができ、商売屋が集まり、そして世界最古の商売である色町が形成されたのだ。
ただ地理的には辺境であるここは文明開化とともに取り残され、それが急激な変化だったばっかりに街の再整備が行われずに昔の様子がほとんどそのまま残っているのだと、説明のおじさんは腰にスピーカーを巻き、マイクは帽子につけて両手を空け身振りもよろしく延々と話をするが、大変な知識の持ち主でもある。
渡された「御手洗マップ」によるとこの街は三角形に海に突き出た形で、何本かの道路ぞいにびっしりと家屋が並んでいる。いずれもほとんどが木造の二階家で町家形式の変形で、幕末から明治初期の建築というのもうなずける。使われている瓦もいろいろな家紋があって、それを眺めるだけでも面白い。
天満宮はちょっと奥にあるお宮で、例の菅原道真が手を洗った井戸があるといういわくつきのものだ。面白いのは建物の下をくぐる小さなトンネルがあってこれを「可能門」という。くぐりながら願い事をすれば叶うのだというが、それほど願うこともなくみんな何となく通り抜ける。
道筋を歩いているとガイドのおじさんが立ち止まって、この先に明治時代からの時計屋さんがあるがテレビにも出たからご存じだろうという。NHKの「プロフェッショナル」という番組に出ていたからぼくも承知しているし、できれば直してもらいたい時計もあるのだ。が、とてもそんな望みは叶えそうもないぐらい繁盛しているという。テレビ以来人々に悩まされたのだろう、ガイドのおじさんはくれぐれも覗き込まないでほしいと念を押す。明治から続いているというその
「松浦時計店」の前をそっと外から見て歩くとすぐに「乙女座」の前に出た。
このすぐ先、もう半島の突端といっていい場所に七卿落ち遺跡という家がある。文字どおり都落ちの身だから仕方ないが、公卿としてこの屋敷に泊まった時にはさぞ落剥の身を嘆いたことだろうと想像できるほど簡素な造りで、脇屋の隣の写真がそれの内部だ。
やがて海辺の道に出て立派な瓦屋根の屋敷の前通ると北前船を作っている店があるという。どれどれと寄ってみるとなるほどおじさんがいて和船を作っている。いろいろ話をしてくれるが、正直に言ってその作品はあまり評価できるものではない。かなり大きいのだが、悪く言えば直線の集積という感があるからだ。ちょっとがっかり。その先の船宿「脇坂屋」で昼食をとって御手洗に別れを告げたのは、午後1時10分のことだった。