10.長門の造船歴史館

 
 

呉阪急ホテルは駅前にあってなかなか快適だ。朝飯を済ませてちょっと近所を見てこようとかみさんと2人でぶらりと出かけた。まあどこにもある都会の街並みだが、すぐに川があってその岸辺がよく整備されている。昔は帝国海軍の呉鎮守府だから何となく海軍の面影があって、「海軍さんの麦酒」だとか「呉海自カレー」なんぞの大きな看板が見える。そのあたりは横須賀よりもずっとあっけらかんとしている感じで、どうやらこの地の方がどこに遠慮もなく海軍を身近にしているんだとちょっとおかしい。

ぼくは大いに勘違いをしていたのだ。今日は長門の造船歴史館へ行くことになっているから、てっきり戦艦長門の造船にゆかりのあるところだろうと思っていた。


8時58分に出発したバスは昨日の音戸の瀬戸にかかる大きな方の橋を渡り倉橋島に入る。それから延々と走って着いた時には9時43分になっていた。どう 見ても軍艦の造船所とは関係なさそうな、風光明媚な海岸だ。建物の前にある看板を見ると「古代倉橋島は長門島と呼ばれていました」と書いてある。なーん だ、と思ったがここは遣唐使の船の実物大模型があるので有名なのだという。地図で確かめるとここは倉橋島の南端にある広い湾に面したところで近所には温泉 もある。

バスの中でガイドのおぎのさんはみんなに念を押していた。
「ここは館内で写真を撮ってはいけないのです。ですから・・・」
と一息入れて、
「決してガイドさんに写真を撮っていいかと聞かないでください。内々に見逃してくれるので写真を撮ることもできます」
事前に電話で交渉してくれたらしい。

まあご親切なことだが、館内に入るなり案内を買って出てくれた館長さんは、
「ここは写真撮影禁止ですが、皆さんは帆船模型の専門家だから特別に写真はかまいません。どうぞ撮ってください」と誠に話が分かる。われわれは大っぴらにカメラを振り回したのだ。

なんといっても、実物大の遣唐使船というのは他では見られない。ぞろぞろとわれわれはまずその模型を見せてもらった。

 

遣唐使船の模型
遣唐使船の模型

この倉橋島は遣唐使船の模型があるぐらいだから、昔から造船の島だったらしい。江戸時代に編集された「芸藩通志」に「…古くより船匠多くあり…昔の船つくりも、此の地なるべし」とあったという。遣唐使船も秀吉の軍船もここで作られたと説明板にある。ぼくは思ってもみなかったのだが、なるほどそういわれてみれ ばここ倉橋島は瀬戸内海に突き出た島で交通の要衝に違いない。豊臣秀吉が朝鮮に侵攻した時に何百隻という船を使ったのは確かだろうから、ここが軍船を作る 基地の1つだったのかとはなはだ納得がゆくのだ。

説明板には、と言っては申し訳ないかもしれない。おそらく館長さんはそういった意味のことを延々とぼくたちに説明してくれたに違いない。ただこっちは模型を見たり写真を撮ったりで忙しく、それをきちんと受け止めてはいなかった。人の話は ちゃんと聞くべきだと大いに反省するが、いま改めて整理してみてこの島が想像以上に活発であったことを認識する。

 

「江戸時代には中四国、 九州一円、近畿、東海、北陸の広い範囲から商用の大小船舶及び各藩のお召船、関船などの注文が相次ぎ…本浦の浜辺いっぱいが造船場となりイロハ47文字の 納屋が立ち並んで…」栄えたというのだ。現にお召船となった関船の模型があるし、昭和初期の石船の造船ジオラマまであって当時の様子を見ることができる。

 


 

世の習いで、ここの造船業も栄枯盛衰を繰り返したという。明治維新後は西洋船の建造が進んでここでの和船建造に500石以上の和船禁止令が出された。一方大正末期から昭和初期には軍事物資の流通が盛んになったために機帆船の需要が増して再び興隆したという。そのあとは鋼船、FRP船の時代になったものだから、現在の多くの木造船の造船所は検査修理が主となっている。瀬戸内海の一つの島にそんな歴史が隠されていたなんて想像もできなかった。日本にはほんとにいろいろなところがある。 

工道具もさることながら、ここに和船の珍しい図面があった。和船はあんまり正確な図面は無いといわれているが、この説明によると「これは船の建造見積を兼ねた図で、材質や寸法を記入した珍しい図です」とある。詳しくは見ていないがその道では貴重なものかもしれない。


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