おわりに

われわれは、いやぼくは日本のことを本当に知らないな、と思う。

瀬戸内海はぼくの父親が生まれ育った土地で、出身地の岡山には子供のころ何回も行っているし、長じてからもいろいろ仕事上の関係もあって普通の土地よりもなじみが深い。岡山県は教育にも熱心だし、食べ物も豊富でうまい。果物だってそうだ。友人もいる。というわけで四国を含めて「瀬戸内」はぼくにとって決して異郷ではない。

それだけに、今回の旅で瀬戸内海の「水運」という一面を見せつけられて愕然としたのだ。例えば、北前船は富山へ行ったときにその外港で詳しい展示を見に行っている。東京では江戸時代から昭和初期にかけていろいろな船が物資を運んできたことも常識といっていい。またぼくがボランティアをしている横浜のみなと博物館では和船の模型も解説もある。また書物からもいろいろ教えらえているのだ。それぞれにフン、フンと言って理解しているつもりでいた。 

そういった断片的な知識が、今回の旅行で全部つながったといってもいい。何をいまさら、と言われそうで躊躇する部分もあるのだが、北海道から北陸を通り、瀬戸内海を過ぎて大阪に至り、更に太平洋沿岸に沿って銚子から江戸へ、あるいは江戸湾に直接多くの荷物が流通していた全国的な和船によるそういった流通が、いかに大きなものであったかを今回改めて認識したのだ。大小を数えれば数千隻を超えようという和船が日本の周囲の海域を回って物資流通の血液のようになっていたという発想はこれまでしたことがなかった。北前船といっても数隻が北海道から北陸へ昆布を運ぶ、という程度にしか頭が回っていなかったといっていい。でも物資の流通量を考えると陸路の整備状況と貧弱な車両で賄えるはずはない。当時の江戸は百万都市といわれている。それだけの物流は海路に頼らざるを得なかったのは考えてみると当然といっていいのだ。

さらに言うと、古くは遣唐使の船、少し下って朝鮮への侵攻、更には朝鮮通信使の接待等々といった多くの歴史的事実に瀬戸内の造船技術と航行経験が大変な貢献していたとは今まで全く気が付いていなかった。村上水軍といい、源平合戦といい、朝鮮侵攻といってもそれらはいわば派手な結果を見ているに過ぎない。大阪市で造った「浪花丸」の建造記録をビデオで見ると、大型の菱垣廻船1艘を造るのに大変な苦労をしている。まあ復元だからという苦労もあるが、機械装置のなかった時代に安宅船や関船を作る技術を瀬戸内海が持っていた。それも大量生産技術である。それでなければ軍船を連ねて朝鮮に向かうことなどできはしないのだ。

86歳にもなってやっとそんなことに気が付くなんて他人様の前では言えないなと思いながら書いているのだから、これもどうかと思うが本当のことだから仕方ない。物事は表面だけを見てはいけない。当たり前のことを教えられたのが今回の旅行の最大の収穫だった。

 

そこで、改めて思うのだが、こういった教育的?といっていい国内旅行を企画し、準備しそして世話を焼いた幹事さんは大変だっただろうなと思うし、心から感謝したい。

単に瀬戸内海を見ようよ、というだけではなくて、フル回転の旅程は年寄りの集団(じいさん、じいさんというな、おれはまだ若いという声が聞こえそうだが) にとってかなり疲れはしたが、よくもまあこんな盛り沢山な計画を立てたとびっくりする。それぞれの見学場所のいくつかはそれだけで1日かけてもおかしくないほどの内容があった。皮肉に聞こえては困るのだが、幹事さんと役員の皆さんは計画にあたってそこまで考慮して場所を選んだんだろうと、その企画に脱帽せざるを得ない。

それと案内ボランティアの皆さんの熱心だったこと、よほど勉強しているんだろうが、われわれの質問にも躊躇なく答えてくれたし、なによりわが町を、この博物館を、誇りに思っているという気持ちが伝わってきたのだ。機会があるならばもう一度現地を訪ねて今度はじっくり話を聞き、いろいろ質問もしたいな、と思っている。

そして最後に、文中でも触れたが、資料を整理し、島と橋の集大成を提供し、われわれがどこにいるかの地図まで用意してくださった松原さん、それと市川さん、田中嘉明さんに改めて感謝の意をささげる。

 

2016年2月21日


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